ホテルのカフェで紅茶をすすりながら太郎がつぶやく。

「これは撤退したほうがいいかもな」

 そのあっさりとした言い草に、永野は目を見開いた。

「なんだ、諦めが早いんだな」

「行くも度胸、退くも度胸だ。通商問題の処理は各国の総領事の権限だから、いくら山本大臣が裏から手を回したところで、有吉がそう簡単に態度を覆すことはないだろう。それに、ここまでこじれれば、この件は必ず表沙汰になる」

「そうかもな」

「密輸は隠密裏にやるからこそ密輸なんだ。公然とやってしまえば、それこそ有吉の言う通り、信義にもとる行為として国際問題に発展してしまう。山本大臣も最後は諦めるだろうよ」

 太郎の予想通り、数日後、帰国命令が下った。

(略)

 こうして、周到に準備を進めた密輸計画は幻に終わった。もっとも後始末はすべて政府がやったので、太郎たちに損害はない。

「面白い冒険譚になると思ったんだが、残念だよ。でも、この件で俺は米のことをずいぶん勉強したし、支那の米事情もすっかり頭に入った。次は米でもうひと勝負懸けてみようかな」

 すっかり頭を切り替えて明るく話す太郎のたくましさに、永田は感心するしかなかった。

「今度は何を考えているんだい」

「江蘇米を日本に持ってこられないなら、支那にいる日本人に売ればいいんだよ」

「上海にいる日本人連中は、みんな江蘇米を食ってたぜ」

「いや、上海じゃない。俺が狙っているのは、満鉄だ」

 

リスクの芽を事前に摘んだ上で
「次の機会」へとつなぐ

 結局、政府公認のコメ密輸計画は頓挫しました。一見すれば、挫折の物語です。しかし、太郎にとってそれは「失敗」ではありませんでした。

 太郎は、計画の発端からすでにリスクを見積もっていました。「儲けはいらない」と政府に言い切ったのも、成功時の利益より、失敗時の損失をゼロにすることを重視していたからです。国のために動くという大義名分と、「損は国が補填」という合意を取り付けた上での行動でした。もし密輸が成功していれば、国民生活を救う影の功労者となり、政府への信用も得られる。失敗しても損害は被らない。すでに勝負の“目”は二重三重に仕込まれていたのです。