とある演奏会にて。オーケストラが、ピアニストが用意していた曲とは違う曲を弾き始めました。絶体絶命のピアニストはどのような行動をとったのでしょうか?
新刊『EXPERT 一流はいかにして一流になったのか?』(ロジャー・ニーボン著/御立英史訳、ダイヤモンド社)は、あらゆる分野で「一流」へと至るプロセスを体系的に描き出した一冊です。どんな分野であれ、とある9つのプロセスをたどることで、誰だって一流になれる――医者やパイロット、外科医など30名を超える一流への取材・調査を重ねて、その普遍的な過程を明らかにしています。今回は、絶対絶命のピアニストが取った行動を、『EXPERT』本文より抜粋・一部変更してお届けします。(構成/ダイヤモンド社・森遥香)

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ピアニストに降りかかった舞台での危機

1997年、ポルトガルのピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュは、アムステルダムのコンセルトヘボウで開催されたランチタイム・コンサートに出演した。指揮はリッカルド・シャイー、演目はモーツァルトのピアノ協奏曲だった。だが、オーケストラが冒頭の数小節を奏で始めた瞬間、ピレシュは自分が準備していたのとは違う協奏曲が始まっていることに気づいた。

コンサートの様子を追っていたテレビ局のカメラが、この異例の出来事を捉えた。のちに放送されたドキュメンタリー番組には、明らかに動揺しているピレシュの表情が映し出されている。指揮台のシャイーと目を合わせたピレシュが、「曲が違う」と言っている。シャイーはピレシュを励ますように、「前のシーズンに弾いたじゃないですか」と言っている。そして、笑みを浮かべてこう続けた。「あなたならきっと大丈夫、うまくいきます」

その通り、彼女は見事に弾ききった。オーケストラによるイントロが終わるまでに気持ちを立て直し、モーツァルトのDマイナーの名作〔ピアノ協奏曲第20番ニ短調〕を完璧に演奏したのである。

ピレシュは、困難な状況に即興で対応する術を知っていた。彼女はすでにこのニ短調の協奏曲を身体に染み込ませており、これまでに何度も演奏していた。とはいえ、準備していなかった曲を、演奏がすでに始まっているコンサートホールで、ほとんど一分足らずのうちに記憶から呼び起こし、頭を整理して実際に弾くというのは尋常なことではない。それができるのは、まさに熟達者だけである。

熟達するとは、たんに自分の専門領域の技能に長けるということではない。未知の状況に遭遇しても柔軟に対応でき、自らの判断を信じて前に進める、ということでもある。もちろん、信頼するシャイーによる励ましも、ピレシュの対応を引き出すうえで大きな意味があった。即座の判断力と経験、長年にわたる努力と準備によって、大惨事を回避したのである。恐れをねじ伏せて、何十年もかけて身につけた技術に身をゆだねることができたのだ。

(本記事は、ロジャー・ニーボン著『EXPERT 一流はいかにして一流になったのか?』の抜粋記事です。)