「ヤマ師」に学べ―怪物経営者・山下太郎の決断力と思考法#8Photo:PIXTA

裸一貫から一代でトヨタ・松下・日立を超える高収益企業「アラビア石油」を作った破格の傑物、山下太郎――。満鉄と結んだ江蘇米の大型契約を一方的に打ち切られた太郎だが、目先の利益よりも信頼と長い縁を選び、潔く契約解除を受け入れた。その態度は満鉄との関係を深め、後に新たなビジネスチャンスを呼び込む結果につながっていく。「損して得を取る」とは、目の前の勝利を手放す勇気をもって、さらに大きな勝利をつかむこと。未来を見据えた太郎ならではの大局観だった。この連載では、山下太郎の波乱万丈の生涯を描いたノンフィクション小説『ヤマ師』の印象的なシーンを取り上げ、彼の大胆な発想と行動力の核心に迫る。

「損して得を取る」
とっさに働く、大局観

 江蘇米の輸入計画は、上海での挫折を経て、南満州鉄道(満鉄)との間で大型契約へと実を結びました。年間5万石という大口契約。しかし、それも長くは続きません。世界恐慌とそれに伴う米価の暴落により、満鉄は契約の打ち切りを通告してきたのです。

 普通であれば怒り、当然の権利として損害賠償を求めたくなる状況でした。実際、満鉄理事の松本烝治も頭を下げながら「訴えられれば法的には君が勝てる」とまで口にしています。それでも太郎は静かにこう言いました。

「わかりました。私の立場を慮ってくださっただけで十分です」

小説『ヤマ師』より引用(P153〜155)

「申し訳ないが、江蘇米の買入れの契約はなかったことにしてもらいたいのだ。役員会で議論を重ねたのだが、これだけ客観状勢が変わった以上、みすみす満鉄の損を放っておけないという結論になった」

 松本は深々と頭を下げた。太郎は手元の湯呑に視線を落としたまま沈黙している。湯気の向こうに松本の苦しげな表情が揺らいで見える。

「いったん契約を交わした以上、本来は満鉄側が負債を被るべきだということはわかっている。君の立場からするととんでもない話だろう。だが、5万人の生活を守る消費者組合の理事長の立場としては、この通りお願いせざるをえないのだ」

 室内の空気が張り詰める。理事室の奥に設えられた大理石の時計が刻む秒針の音がはっきりと聞こえてくる。やがて太郎は静かに顔を上げ、重い空気を割るように口を開いた。

「わかりました。私の立場を慮ってくださっただけで十分です。この契約はなかったものと思って諦めます」

 あっさりとした承諾の言葉に松本は目を見開いた。

「本当にすまない……ただ、これは満鉄の理事ではなく、商法の専門家として言うんだが、君は満鉄に損害賠償請求を起こすことはできるよ」

 太郎の潔い態度に感服したのか、松本は意外な提案をした。

「今回、君が被った損害は相当なものだ。もし満鉄が訴えられたら、法律上も、徳義上も賠償すべき事案といえる。君にはその権利はあるのだが、どうするね」

「いいえ、そのつもりはありません」

 太郎は即答した。

「実際、5万石の米をすべて準備していたわけではありませんので。取らぬ狸で、確かに頭の中では結構な儲けを夢想しましたが、その分を賠償してほしいとは考えていません」

「山下くん、正直、私は感心している。満鉄に出入りする商人は、ささいなことで訴えたり、補償要求を出したりすることが多いんだ。半分お役所だと思って食いものにしようと考えるのだろう。それに比べて、君はなんて潔いんだ」

「とんでもないことです。私は事実を言っているだけですから。私が事を起こせば、満鉄側で苦境に立ち、苦悩にあえぐ方も多く出るでしょう。それは私の望むところではありません」

 ここで満鉄に損失を支払わせたら、きっと松本との縁は失われる。同時に「大満鉄」を永久に敵に回すことになる。太郎はそう判断した。利に聡い一方で、損して得を取る大局観がとっさに働く。この不思議な性格が新しい運命を切り拓くきっかけとなっていく。

「見上げたもんだ。君の考えは役員連中にもよく伝えておくよ。いずれまた会うことがあるかもしれないね」

 松本は太郎に右手を差し出し、2人は固い握手を交わした。