彼女たちにとって不良フィリピン人男性は用心棒のような存在だったのだろう。

 だが、不良グループは組織立ってはなかったため、メンバーの間の連帯感はないに等しく、各々自分が儲けることばかり考えて動いていた。そのため、ヒモになってフィリピン人女性を利用するとか、依頼をすっぽかして金を持ち逃げするといったことが絶えなかったらしい。

 また、こういう不良グループは違法ドラッグの密売にかかわっていることがあり、悪質な者になると、同胞であるフィリピン人女性をクスリ漬けにして売春や違法ドラッグの密輸に利用していたことがあったようだ。この際によく使われていたのが覚醒剤だった。彼らはそれで女性を手なずけていたのである。

 警察の記録によれば、バブル崩壊直後の1994年に覚醒剤で検挙された外国人は338人であり、国籍別でもっとも多いのがフィリピン人175人(51.8%)だ。2番目に多いイラン人85人(25.1%)の倍以上である。

 当時、仕事を失ったイラン人が積極的に違法ドラッグの密売に手を出していたことを踏まえれば、フィリピン人の間で相当覚醒剤が広まっていたことがうかがえる。

日本人男性との結婚で
一発逆転を狙うものの……

 今回、話を聞いた1980~1990年代に日本にエンターテイナーとしてやってきて、売春を強いられた女性は一様に「嫌だけど仕方がなかった」と語っていた。異国にやってきて、言葉もわからないまま借金と仕送り分の金額を毎月稼ぐにはなりふり構っていられなかったのだ。

 こうした生活が半年で終わるとわかっていれば、体力と気力で乗り越えられた人もいたかもしれない。だが、フィリピンのスラムや農村で困窮する親族を経済支援するというのは、コップの水で砂漠を潤そうとするようなものだ。いくら体を売って稼いでも、送金した先から金は溶けていってしまう。

 そんな彼女たちにとって人生の大きなゲームチェンジの方法が、経済力のある日本人と出会って結婚することだった。日本人と結婚すれば、配偶者の在留資格を手に入れて合法的に日本にいられるし、リスクを冒さずに家族へ仕送りすることも可能になる。店側もそれをわかっており、日本人男性がまとまった身請け金を支払えば、退店を認める仕組みを用意していた。

 前出の静岡県在住のフィリピン人女性は、2度目の来日時に出会った日本人の会社員と恋愛関係になり、22歳で結婚して夢を叶えたが、現実的にはうまくいかなかった人たちも多かった。