つまり、それまでは、必要だが、ありあまるほどにあったものが、「足りない」ものにならなくてはいけない。たくさんあった公的な富が、少ないものへと転換する。私的な富は増えたが――そして貧富の格差が生まれたが――、それは公的な富の縮小をともなうことになる。

誰もが価値を認めれば
それは希少性をまとう

 ここで留意すべきは、「稀少である」ということは、物の客観的な性質ではない、ということだ。その物を見る主観的な視線が、稀少性という性質をもたらしている。

 稀少性は、将来に対する私の憂慮が物に投射されたときに生まれる。

「この物を通じて得ることができる、私の将来の欲求の充足が実現しないかもしれない――他者によって阻まれるかもしれない」という認識と相関して、その物が稀少なものとして立ち現れる。

 そして、このような憂慮があるとき、物は交換価値をもつ。したがって、稀少だから交換価値があるのではなく逆に、その物に交換価値を付着させたがゆえに稀少だということになるのだ。

 水に値段がつけば、その水は、その絶対量に関係なく稀少である。そして、水で大金持ちになる一部の人と、足りない水を何とか買わなくてはならない大量の貧乏人が生まれる。

 驚くべきは、公的な富は小さくなっているのに、人は、私的な富の拡大を求めて貨幣経済を、そして市場経済を受け入れるということだ。だから、マルクスは、ここに「物神」の力を見たのである。

 いったん受け入れてしまえば、もはや、公的な富が豊かだった段階に戻ることは不可能になる。

 物がすでに広く交換価値をもってしまった段階で、それを拒否すると、公的な富が帰ってくるどころか、富そのものがまったく無になってしまうからだ。