「どうしてクソみたいな候補が当選するのか」の疑問から考える「民主主義の自己破壊スパイラル」写真はイメージです Photo:PIXTA

古代ギリシアからルーツがある民主主義。その歴史は人類の発展とともにあったと言えよう。しかし、現在はこれまでの常識では考えられないような候補者が当選するなどの事態が起こり、民主主義のあり方に疑問が呈されている。民主主義への“終焉論”と“過剰論”の対立も見られるが、こうした現状と問題点を中島啓勝氏が語る。※本稿は、中島啓勝『ておくれの現代社会論:○○と□□ロジー』(ミネルヴァ書房)の一部を抜粋・編集したものです。

民主主義は「勝利」したが
実際には「敗北」している

 政治・社会思想史の研究者である森政稔はその著書『迷走する民主主義』の中で、欧米を中心に近年、民主主義についての悲観論が強まっていると述べている。普通選挙や議会制など、一般的に民主的だとされる政治制度が世界中に広まり、漠然とした観念としての民主主義に対して公然と反対を唱える人は少数派に過ぎないにもかかわらず、民主主義への失望が声高に語られているというのである。

 確かに、「選挙なんて行っても仕方ない」と冷笑的なことを口にする人はいくらでもいるだろうが、「だから選挙制度なんてものは無くしてしまおう」とまで主張する人はそうそういないし、「自分は反民主主義者だ」と堂々と宣言する人がいたとしても、それは民主的な社会では言論の自由が守られているから可能なのであって、その意味ではこの自称「反民主主義者」も民主主義の恩恵を大いに受けている。

 その理念や制度が広まり常態化したという意味では民主主義は勝利したはずなのに、人々の信頼を失っているという意味では敗北しつつあるという逆説がそこにはある。

「民主主義の終焉」論と
「民主主義の過剰」論

 森は更にこうした悲観論を、「民主主義の終焉」論と「民主主義の過剰」論の2つに分けて説明しているのだが、これは非常に乱暴に言えば前者が「左派」的な視点、後者が「右派」的な視点だと言える。

「民主主義の終焉」論者は、民主主義が高度に発展した資本主義に従属的となっていることを問題視する。「生産者」というよりむしろ「消費者」的主体へと変質した市民が、民主的な手続きを通じて新自由主義的政策を支持することで社会的不平等と格差を広げてしまい、ますます民主主義の力を削いでしまうと主張する。

 その一方で、「民主主義の過剰」論者は民主主義と資本主義を表裏一体のものだと捉える。彼らによると、消費社会における欲望の増大や公共心の衰退は、民主化およびそれに伴う社会の平準化によって引き起こされたものである。人々は政府が自分たちの私的欲求を満足させてくれないとクレーマー化するが、かと言って主体的に政治を担うには公共心が欠けているため、不満を一気に解決してくれるような強い権力者を求める。そして、民主主義は結局は独裁へと傾く、と主張するのである。