1967年、どん底からの出発だった。 

 三本守は高校卒業後、定職が見つからず、日雇い労働者として土木工事の現場を転々とする毎日を送っていた。

 「あのとき、藤本が声をかけてくれなかったら、今の私はないでしょうね」

 三本は温和な笑顔で当時を振り返る。その表情に、いわゆる「産廃処理業者」という厳ついイメージは微塵もない。

 三本が言う「藤本」とは、同社の共同経営者で、2007年6月末まで取締役会長だった藤本武志のこと。2人は小学校5年生から2年間、クラスを共にし、家は隣同士という親しい仲。三本の転居により2人の交遊は途絶えたが、高校卒業後、再会した。

 藤本は当時、土木作業の下請け会社を設立したばかり。気心の知れた三本に対し、「一緒にやらないか」と誘った。共に20歳、たった2人での起業だった。

 「経営者」にはなったものの、生活ぶりはそれまでと変わらなかった。土木工事の下請け作業員として、道路工事などに明け暮れた。アスファルトを破砕するブレーカーと呼ばれる道具で一日中、道路を掘り返した日は、機械の振動のせいで作業後も手が震えて、箸すら持てなかった。

 起業して半年もした頃、三本はあることに気づいた。工事現場では金属くず、木くずなど、大量の建設廃棄物が排出されるが、それらを回収して埋め立て地に運ぶ仕事は、資材運搬業者がついでに行なっていた。「廃棄物の回収・運搬を専業でやったら仕事になるんじゃないか」。

 きっかけは単なる思いつきだったが、時代が2人に味方した。

 1972年に田中角栄が首相に就任すると、その著書『日本列島改造論』で主張した交通網整備の工事が急増。列島改造ブームで地価が高騰するなか、マンションブームもわき起こった。空前の建設ラッシュで、同社には大量の仕事が舞い込み、元日も返上して働いた。