どちらかが上がるとどちらかが下がる
人生はシーソーのようだ
「描いたんだ」
「たまるかー この太ったおんちゃん 最高やね あんぱんくばりゆ」
今泣いたのぶがもう笑った。あんぱんのおんちゃんで笑顔になった。
でも漫画じゃないじゃん。
「描けたんだ」とのぶに見せた、ようやく描いた嵩の描きたいもの。でもそれは漫画ではなく、イラスト。漫画じゃないじゃん。いや、これから漫画にするためのイメージ画と考えたらいいだろうか。水を差すようでなんだが、「アンパンマン」はいわゆる漫画にはならない。絵と文の読み物や絵本のキャラクターである。
漫画にこだわるのではなく、心の中を表出するもの。それが嵩が探していたものなのだろう。
他者から頼まれたものを上手にさばくことはできても、本当の自分の心を絵として表現する。それが生きることなのだ。
でもそれも、誰にでもできることではない。誰もが生きるためにできること、求められることをやって凌いでいる。ドラマでは、たいてい、自分のやりたい夢を叶える人が主人公だ。やなせたかしをモデルにした嵩が主人公だったら当然そうなっただろう。
そこをあえて、ほぼ何も記録に残さなかった、暢をモデルにしたことは、意義深いトライだったのではないだろうか。
ここからはちょっとドラマから逸れるが、中園の話を聞いて、筆者はとても納得がいった。
筆者のまわりに、著名人の妻が何人かいる。彼女たちは、家柄もよく学歴も高く、いい会社に勤め、いい仕事をして、交流も華やかだ。でも決して著名な夫より目立とうとはしない。
また一方で、人気商売をやっている同士でつきあっていた女性が、別れを決意したとき、その理由をこう言った。こういう仕事でつきあったり結婚したりするとどちらかしか売れないものだからと。
なんて野心家なんだと驚いたのだが。必ずしもそうとは限らない(これが本音だったとも限らない。そう思って折り合いをつけていただけかもしれない)。夫婦それぞれが大活躍しているケースだってある。だが、そうはならない。必ずどちらかが支える側に回るという認識もこの世に存在しているのである。
「あんぱん」に出てきたシーソーはまさにそれを表しているようだ。どちらかが上がるとどちらかが下がってバランスをとっている。
夫婦に限ったことではなく、共生とはかくも難しい。願わくば、誰ひとり我慢しなくて済む世界になるといいなと思う。
