「勘」の正体は経験のデータベース

「次はこの銘柄や」

シゲルさんが指さしたのは、先ほどとは全く値動きの違う、地味な印象の機械メーカーの株だった。僕の頭の中は、まだ34万円という数字でいっぱいだったが、シゲルさんはもう次の獲物を見据えている。

「これも……売るんですか?」

「アホ、これは買うに決まっとるやろ。よう見てみい。ここ3ヶ月、ずっと同じような価格帯で揉み合っとる。出来高も少ない。誰も注目しとらん、いわば“退屈”な株や」

確かに、チャートは心電図のように平坦な線を描いていた。先ほどの銘柄のような熱狂はない。

「人気がない株を買って、どうするんですか?」

こういう株はな、大きなニュースひとつで化ける可能性があるんや。それに、下値も堅い。大きく負ける可能性が低いところで仕込んで、気長に待つんや。さっきの売りは短期決戦。こっちは長期戦やな」

シゲルさんの言う「勘」とは、単なる当てずっぽうではないことに、僕は気づき始めていた。70年という歳月をかけて、膨大なチャートのパターン、値動きの癖、そしてその時々の市場の空気感を、その身体にデータベースとして蓄積しているのだ。

そのデータベースから、瞬時に最適な解を引き出す行為を、彼は「勘」と呼んでいるに過ぎない。

卵を一つのカゴに盛るな

「ええか、兄ちゃん。さっきみたいに勢いのある株ばっかり追いかけてると、いつかハシゴを外されるで利益が出やすい株は、その分、急落するリスクも高い。だから、こういう地味やけど底堅い株も持っておくんや」
そう言って、シゲルさんはこともなげに買い注文を入れていく。

「いわゆる、分散投資ってやつですね」
「そういうこっちゃ。卵は一つのカゴに盛るな、や。ワシのポートフォリオにはな、こういう“守り”の株もあれば、さっきみたいな“攻め”の株もある。ITもあれば、食品もある。自分の得意な戦い方を持つことは大事やけど、それだけに固執したらアカン。相場に合わせて、柔軟に立ち回らなあかんのや

目の前で繰り広げられるのは、単なる売買の技術ではなかった。資産を守り、着実に増やしていくための、リアリズムに裏打ちされた戦略そのものだった。

なぜこの銘柄を選ぶのか。なぜ今このタイミングなのか。全ての行動に、70年分の重みが詰まっている。僕はようやく、自分が本当に学ぶべきことの入り口に立ったような気がした。

※本稿は、『89歳、現役トレーダー 大富豪シゲルさんの教え』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。