その背景には、当時の法務省に、現行の少年法にたいする不満がくすぶっていたとされている。

 検察が少年を調べる(検察官先議という)まえに、家庭裁判所が調べることは、いわば検察側への領域侵害だ。戦前のように検察官先議に戻したい。そんな考えが、法務省の官僚や検察官の一部に根強く残っていたのだ。

 じつは法務省は、戦後直後から水面下で動いていた。1959年に少年法調査研究会なるものを設置していたのだ。検察官先議の復活をねらう活動の帰結として、満を持したかたちで青少年法構想が明らかにされたのである。

少年法に守られながら
反政府活動をする学生たち

 時代をみれば、1960年代は安保闘争のただなか。18歳~20代前半の大学生らを中心とした青年が、デモ行動をくり広げていた。まさに対象世代の若者が政治活動をしていたさなかの構想発表、というのが何とも興味深い。

 同時に、これは法務省と裁判所の権力争いであり、互いのプライドをかけた綱引きだった、という見方もできる。

 法務省の構想には、最高裁と日本弁護士連合会が大反対した。さらに世論も、おおむね反対していた。

 それでも法務省は手を引かず、1970年、この構想を引きついだ「少年法改正要綱」を発表する。

 青少年法構想をマイナーチェンジした、この要綱のキモは、18歳と19歳を「青年」としたうえで原則、刑事裁判の対象にする、というものだった。

 法務省作成のこの「少年法改正要綱」は、やはり最高裁と日弁連が反対するなか、有識者による審議会(法制審議会)に諮られた。有識者による議論を通じて、改正法案にお墨付きをもらおう、という狙いだ。

 しかし、6年余り、69回も議論を重ねても、最終的に一致した結論には至らなかった。

 こうして歴史の長軸でみると、平成末期から令和の動きも、その趣きを変えてくる。すなわち、自民党を中心としてはじまった少年法改正論議は、じつはこの「青年」議論の残滓ではないか、と。