山口二矢17歳、永山則夫19歳は大人か少年か?1960年代の政治の季節、殺人少年への“配慮”が始まった写真はイメージです Photo:PIXTA

1948年に制定された少年法により、少年事件の加害者は実名を報じられない。だがそんなルールなどおかまいなしに、個人情報を報じられた少年殺人犯がいる。1960年10月、世間が安保闘争の興奮さめやらぬなかで社会党党首を刺殺した、17歳の山口二矢。70年安保闘争に向けて世情が左傾化していく1968年10月から11月にかけて連続射殺事件を起こした、19歳の永山則夫。彼らはなぜ、「少年A」ではなかったのか?※本稿は、川名壮志『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか:不確かな境界』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。

政治家へのテロが横行するなか
右翼少年は社会党トップを狙った

 今でこそ「名無し」の匿名報道が常識となった少年事件だが、昔からそうだったわけでもない。かつては、少年を実名で報じ、なおかつ顔写真まで載せていた「非常識」な時代があった。

 もっとも有名な事件のひとつが、山口二矢(おとや)の事件だろう。

 1960年10月、日本社会党の党首、浅沼稲次郎氏を、17歳の少年が刺殺した事件だ。事件は白昼堂々、東京・日比谷公会堂で発生した。少年、山口二矢は、学生服にコートを羽織った姿で壇上に駆け上がると、おおくの観衆の前で熱弁をふるっていた浅沼氏を刺し殺した。凶器は、刃渡り34センチの脇差しだった。

 山口二矢は早生まれで、もし高校に通っていたら3年生の年次だった。だが、新聞やテレビ、それに世間も、その凶行を単なる少年事件とはみなさなかった。彼は極右の政治団体に入会したこともある右翼少年だったからだ。

 世が世なら、山口二矢は「キレる17歳」と切り捨てられただろう。だが、この事件は、むしろ国粋主義者による政治テロととらえられた。