横浜のソウルフード
「シウマイ弁当」の誕生と変遷
「横浜駅崎陽軒のシウマイ」は、1928年に発売された。「シュウマイ」や「シューマイ」ではなく「シウマイ」と呼ぶのは、野並が「焼売」を在日中国人(広東人)に発音してもらい、その発音が正しいことを確認したからであった。
こうして南京町界隈の日常的な食べ物であったシュウマイは、1920年代末に横浜駅の弁当になり、横浜名物として発売された。しかし、横浜のシュウマイが全国的に有名になったのは、第2次世界大戦後のことである。
1954年には「シウマイ弁当」も誕生し、それは10年足らずで崎陽軒の売上の約2割を占める名物になった。シウマイ弁当のおかずは、発売当時はシウマイ、特製かまぼこ、福神漬けの3品だけだったが、しだいに増えていった。漫画家・横山隆一が描いた百面相の醤油入れ「ひょうちゃん」も、1955年に誕生した。
しかし、1964年には横浜駅を通らない東海道新幹線が開通し、横浜駅での立ち売りは売上が急落して、新幹線の車内販売などに切り替えられた。
さらに、崎陽軒は「食品メーカー」への転換を図り、1967年に「真空パック」のシウマイを発売した。「真空パック」という名称は、崎陽軒が最初に発案したものである。
1966年、都市政策プランナーの田村明は、東京と大阪を「コーヒー文化」と「おこのみやき文化」として対比し、横浜と神戸を「シウマイ文化」と「洋菓子文化」として対比した。田村によれば、「ハイカラ趣味、近代趣味を代表する東京のコーヒーが、横浜では、庶民性を代表する実質主義のシウマイにおきかえられ」るのだという。
1960年代にはシュウマイが、横浜を象徴する食べ物になっていた。
横浜名物としてブランド化した
崎陽軒と「シウマイ娘」の功績
総務省統計局の「家計調査年報」によれば、2023年でも横浜市民のシュウマイへの支出額は全国平均の約2.4倍で一番多く、横浜近郊の川崎市や東京都区部がそれに続いている。シュウマイは今でも「横浜のソウルフード」といわれている。