偕楽園は、明治期の日本を代表する中華料理店であり、その献立にあったシュウマイは、当時の中華料理を代表する点心といえた。

 明治の終わり頃には、横浜の南京町界隈でシュウマイが身近な食べ物になりつつあった。

 横浜で生まれ育った作家の獅子文六(1893~1969年)によれば、1900年代頃の横浜では「支那料理」とは呼ばず、「南京料理」「南京ソバ」「南京」と呼んでいた。当時の南京町の料理店は衛生状態が悪く、料理を運ぶ日本の女性が粗野な言葉を使ったという。

 この頃の横浜では、夜になると華僑がチャルメラを鳴らして、ソバやシュウマイを売り歩いていた。

主食のシュウマイが
日本ではご飯のおかず!?

 1910年、横浜開港50年を記念して刊行された『横浜成功名誉鑑』は、南京町や伊勢佐木町の「支那料理店」を紹介し、「南京蕎麦」「ワンタン」「シウマイ」「チャーシュー」が手軽で、おいしく、腹の足しになる「三徳の料理」として知られていると述べている。これらの料理は、おもに横浜の南京町から広まっていった。

 シュウマイのレシピは、1912年に赤堀料理教場(1882年に日本初の料理学校として開校、現・赤堀料理学園)の講師・奥村繁次郎が刊行した『実用家庭支那料理法』を皮切りに、料理書、料理雑誌などにたびたび登場するようになった。

 昭和世代には懐かしいグリンピースを載せたシュウマイも、1931年刊行の料理書に絵入りで登場している。それは、1950年代に日本冷蔵(現・ニチレイ)の冷凍シュウマイが学校給食として提供されるようになってから全国的に広まった。

 1930年代の日本の中華料理店では、シュウマイは必ず出されるものになっていた。例えば、1929年、東京・銀座の松屋、松坂屋のデパート食堂は、シュウマイをメニューに採用し、みやげ用にも提供していた。

 さらにデパート食堂は「焼売ご飯」も提供した。中国ではシュウマイがたいてい主食なので、横浜のシュウマイ店・博雅の鮑博公が「日本は面白い国ですね」と話していたという。