
「日本三大ラーメン」といえば札幌、博多、喜多方だ。やがて「ご当地ラーメン」は日本各地で誕生し、世界に広まったが、ルーツには中国と朝鮮の人々の大きな貢献があった。1884年に登場した「南京そば」に始まる、日本人の国民食の近代史をひもとく。※本稿は、岩間一弘『中華料理と日本人 帝国主義から懐かしの味への100年史』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。
日本のラーメンの始まりは
1884年に登場した「南京そば」
現在のラーメンに直接つながる麺料理が日本に伝わったのは、近代以降のことである。
1858年に日米修好通商条約が締結され、59年に神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎、新潟、函館が開港された。さらに1871年、日清修好条規が結ばれ、日本の開港都市に住む華僑が法的に承認された。
横浜の外国人居留地には、1870年頃に劇場と料亭を兼ねた娯楽場「会芳楼」が開かれ、中国人だけではなく西洋人や日本人にも利用されて、チャイナタウンの中心になった。
「南京そば」が日本の印刷物に初めて登場したのは、1884年(4月28日4頁)の『函館新聞』に出された「養和軒 アヨン」の広告とされる。
函館の外国人居留地にあった養和軒は、西洋料理とともに「南京料理」を提供し、その1つが「南京そば」であった。養和軒の店主はおそらく華僑だろう。1899年に治外法権と外国人居留地が撤廃され、外国人の内地雑居が許可されると、「南京そば」は条約港から日本各地へ広がっていった。
浅草では明治末から何軒かの中華料理店が開業し、1908年に開業した「中華楼」が「東京における支那そば屋の元祖」として知られた。