冷めてもおいしい
揺れる車内でも食べやすい
1930年に雑誌『食道楽』で吉村厳という人物が、「横浜には南京町はあって、チャブ屋〔外国人船乗り相手の売春宿〕があって、シュウマイがあって、唐人趣味な娘が歩いていて、英語のしゃべれるリキシャマン〔人力車夫〕がいる。と、いうのが大体の横浜のプロフィール」と述べている。
この当時すでにシュウマイは横浜を代表する食べ物であった。なかでも有名だったのが、博雅のシュウマイである。
博雅は、1881年に鮑棠が横浜の外国人居留地で創業し、居留地が撤廃された99年、伊勢佐木町に移転した。これは中国人が日本人居住地に出した最初の店の1つである。
2代目の鮑博公が、1922年に神奈川県産の豚肉、北海道産の乾燥貝柱と車エビを使った独自のシュウマイを作り、「元祖・横浜シウマイ」として大ヒットした。博雅は1980年に閉店し、横浜松坂屋などでの販売も2008年に終了した。
博雅に続いて有名になったのが、崎陽軒である。1908年に横浜駅(現・桜木町駅)の構内で創業し、1915年に横浜駅とともに移転して駅弁の販売を開始した。のちに「シウマイ王」として名をはせる野並茂吉が支配人に就任すると、彼は1926年頃から横浜駅の新名物を作ろうとし始めた。
当時すでに、小田原のかまぼこ、沼津の羽二重餅、静岡のわさび漬と鯛めし、浜松のうなぎ弁当が、名物として競い合っていた。そこで野波は、南京町のつけだしに出されていたシュウマイに注目し、腕利きの点心職人である呉遇孫をスカウトした。
呉遇孫は、1921年に広東省から来日し、横浜の南京町で中華料理店「遇楽」を開き、その息子が45年に今も健在の「順海閣」を創業した。
崎陽軒の「シウマイ」は、野並と呉が1年ほどかけて開発した。それは、揺れる車内でも食べやすいように小粒とし、冷めてもおいしいようにホタテの貝柱のすり身を豚肉に混ぜ、タマネギを使ってほどよい甘みを出したものであった。