そんな中、手術後も植物状態が続いたベトさんへの思いは変わらなかった。学校から帰ると声をかけ、手を握った。「一緒に遊ぼう」と言うと、笑いかけてくれる気がしてうれしかった。
2003年にツーズー病院で事務の仕事に就くと、06年に知人の結婚式で出会ったグエン・ティ・タイン・テュエンさんと結婚した。「私の愛は私が責任を持つ」という彼女の言葉に勇気付けられた。
自分の家で家族と食事し、自分のベッドで眠るのが、子供の頃からの夢だった。結婚後、ローンで自宅を購入し、病院を出た。「いずれベトを引き取りたい」との思いがあった。
兄の分まで生きようと
被害者支援に人生を捧げた
2007年10月5日夜、ツーズー病院からドクさんの自宅に電話があった。
「大変なことになりそうだ」。駆けつけると、ベトさんは6日未明、静かに息を引き取った。
その数カ月前から衰弱が始まっていた。毎日病状を確認し、覚悟はしていた。それでも、涙が止まらなかった。
「ずっと、ずっと一緒にいてくれると思っていたのに……」
ベトさんは学校にも行けず、社会と関わりを持てないまま、26歳で人生を終えた。いなくなって思い知らされた。「自分はベトを犠牲にここまで来た。これからはベトの分も生きよう」
自分の体験を話すのが好きではなかったが、ベトさんの死後、考えが変わった。
「自分が語ることに意味がある」。
自ら設立した非営利組織で講演活動を行い、講演料を枯れ葉剤の被害者らに寄付する。
中村さんとの交流は、40年を超えた。「ドクは成長した。戦争被害の象徴であり続けることを、自分の役割だと自覚している」と目を細める。
09年10月、人工授精で双子の男女が生まれた。日本の支援に感謝し、息子をフーシー、娘をアンダオと名付けた。ベトナム語でそれぞれ「富士」と「桜」を意味する。