彼からは、「不要なものは何ひとつ持って行ってはならない」と言い渡されて、準備していた雨具のパンツも置いていけと言われました。

「雨具のパンツを穿かなければならない状況になれば、それはすでに、なにか間違いが起こっている。1グラムでも軽くして一刻も早く登り切ろう」――これがツェルマットのガイドの流儀です。

 日頃、「Light&Fast」をモンベルのものづくりのコンセプトとしてきましたが、その徹底ぶりに驚かされました。

 近年の天気予報の精度も向上しているので、「悪天候が予測されれば登らない。確実な晴天を選んで登る」――すなわち、過度に悪天候に備えた装備は不要だと言うのです。それはまたこの山を知り尽くした地元ガイドの経験に基づく確信でもありました。

まず挑戦したのは
ブライトホルン

 7月9日、ダニエルの提案で、私が高度に順応できるように、マッターホルンに先駆けてブライトホルン(4164メートル)に登ることにしました。

 ツェルマットからロープウエイでマッターホルン・グレーシャーパラダイス(3883メートル)まで一気に登り、頂上までの雪面を標高差281メートル登る。アルプスでは比較的手ごろな登山コースとされています。

 ロープウエイを降りて氷河に出れば、頂上までの登山ルートを目視できました。夏スキーを楽しむスキーヤーを横目に見て、緩やかな雪面をいったん下って氷原に出てからダニエルとロープで結び合い、先行者の足跡に沿って徐々に高度を上げました。

 技術的にはまったく問題のないレベルでしたが、なんといっても4000メートルを超える標高では空気が薄く、呼吸が苦しく感じられました。

 日本を出発する前から少し咳き込み、体調が万全でなかったこともあって、登り始めてしばらくして、早くも高山病の症状を感じ始めました。

 高山病に対する特効薬はありません。地上の3分の2しかない空気を摂取するには、意識して呼吸をたくさんするしかない。ただただ慎重にアイゼンを雪面に利かせながら一歩一歩、足を進めました。