1823年に第5代大統領のモンローは、欧州諸国との相互不干渉を宣言した。その閉鎖的な政治姿勢を、モンロー主義という言葉はさしている。大阪市の交通政策をしめす慣用語としても、これは採用された。
その当否、用語としての良し悪しはともかく、南海電鉄は北進をゆるされなくなった。
北へ向かうパレードの背景には
南海電鉄の野望があった
梅田まで北上したいという思惑を、難波でさえぎられたのである。難波駅はターミナルにならざるをえなかった。それは、北へのびようとする夢が切断された跡なのである。
南海電鉄にかぎったことではない。北側の梅田を終着駅とした阪神電鉄と阪急電鉄も、南進の意欲を断念した。ミナミの難波まで路線を延長させることは、大阪市の方針でかなわない。両電鉄の梅田駅も、南へむかう夢をとちゅうではばまれ終着駅となった。両電鉄がターミナル化を強くのぞんでそうなったというわけでは、かならずしもない(地図3)。
同書より転載 拡大画像表示
もう一度、1959年の御堂筋パレードをふりかえる。この時、南海の選手たちは難波駅の南側にあった大阪球場から、行進を開始した。キタの梅田までそれをつづけている。そして、南海球団は以前から御堂筋で凱旋をしたいとのぞんでいた。
なぜ、そういう志をいだいてきたのか。ひとつには、御堂筋が大阪随一の大通りだったからだろう。
だが、いまひとつの理由として、親会社である南海電鉄の見はてぬ夢もあげられまいか。ほんとうは、梅田まで南海の電車を走らせたい。そんな欲望が球団の凱旋に形をかえ、北へむかうパレードになったのではないか、と。
『阪神ファンとダイビング 道頓堀と御堂筋の物語』(井上章一、祥伝社)







