【特攻隊員】熱望した人が指名されず、望まぬ人が選ばれた…新発見の「志願者名簿」が示す“残酷な選抜ルール”写真はイメージです Photo:PIXTA

特攻隊員は、みずから「志願」して命をささげたのか。あるいは「命令」だったのか。戦後80年、特攻を語る際、常に議論となってきた。今回新たに見つかった資料「志望者名簿」をつぶさに見ていくなかから、その真実が見えてきた。※本稿は、大島隆之『“一億特攻”への道 特攻隊員4000人 生と死の記録』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。

体当たりとは知らされず
募集された搭乗員

 日本軍が特攻に向け本格的に舵を切り始めたのは、フィリピンで体当たり攻撃が始まる半年以上前の昭和19年2月のことだった。

 トラック島の基地が大空襲を受け、アメリカとの埋めがたい戦力差を目の当たりにした海軍軍令部は、以降、人間魚雷「回天」や特攻ボート「震洋」、爆撃機から投下される滑空機の先端に1.2トンの爆弾を搭載し尾部にはロケットエンジンをとりつけた人間爆弾「桜花」などの開発を立て続けに命じていった。

 陸軍もまた、特攻ボートや体当たり専用飛行機の開発を進めていくことになる。

 海軍は昭和19年8月ころ、「桜花」搭乗員の志願を国内各地の航空隊で募っている。詳細は知らされず、「生還は期し難いが、一機で敵艦を轟沈できる新兵器」とのみ告げられた。

 志願して隊員に選ばれ、実際に兵器を目の当たりにした搭乗員たちは、「やってやろうじゃないか」と思う者もいれば、「こんな兵器なら手を挙げなければよかった」と落胆する者もいたが、あくまで形の上では「志願」だった。