「いつ順番がくるのかな…」
拒否なんてできないと悟った

 一方、昭和19年10月にフィリピンの最前線で特攻隊が編成された時、「志願」は形ばかりのものだった。

 10月19日の夜、体当たり攻撃隊の編成を告げられた海軍の甲飛(編集部注/旧日本海軍がパイロットなどの搭乗員を養成するために設立した「甲種飛行予科練習生」の略称)10期生たちの証言は、「行くのか行かんのか、と怒鳴られ、一斉にハイと答えた」「体当たり攻撃を行う、お前たち頼むと言われた」「長い沈黙の後、ぽつぽつと手が上がった」と若干の食い違いがあるものの、事実上、彼らに志願を拒むという選択肢はなかった。

 井上武さん(編集部注/甲飛10期出身で、零戦隊「豹部隊」の一員)の「あまり良い気分じゃなかったですよ。みんな黙ってね、引きあげていったんですよね。いつ順番がくるのかなって、そんなことをぼそぼそ話しながらね」という心情は多くの同期生に共通していたようだ。

 同様の証言が、同じ場にいた齋藤精一さんが生前に残した手記にも見られる。

《我々は出る言葉もなく、三三五五重い足取りで兵舎に向った。草を踏む疲れた靴音に追われながらやっとたどり着いた。

 普段なら賑やかな我々の城だが、今夜は空家のように静かである。皆んな寝ころんで何かに耽っている。私も総べてを吸い取られたような無気力さを感じた。我々が宿舎に帰ってからの様子が尋常でないのに気遣いながら待っていた戦友達が寄って来て色々と尋ねて来る。

 先程の経過を説明すると皆んな驚きながらも「そうか、来るべき時が来たな」と悟ったような覚悟と不安とを内に秘め我々の側から離れて行った。

齋藤精一さんの手記より》

搭乗員の志願の程度を
記録した冊子を発見

 このように、「志願」なのか「命令」なのか、「志願」だとすればそれはどの程度彼らの真意を反映したものだったのか。客観的に語れる資料がないまま、限られた証言の中で堂々巡りを繰り返すというのが、戦後80年近く続いてきた状況だった。