「特攻なんて嫌だ」とは
口が裂けても言えなかった

 そして昭和19年3月末に戦闘機の搭乗員に選ばれ、大村航空隊・元山分遣隊(のちに元山航空隊に改称)で零戦の基礎訓練を積んだのち、8月以降は元山基地(現・北朝鮮元山市)で教官となり、後進の指導に当たっていた。

 そのさなかの昭和19年11月、特攻に志願するかどうかの調査が、元山航空隊にいる教官・教員を対象に行われることになる。

 土方さんの話では、海軍兵学校出身の中尉と予備学生出身の少尉が一堂に集められ、司令と飛行長から、「戦局の打開のためには一機で一艦を沈める特攻しか残されていない」との説明があったあと、「熱望」「望」「否」のいずれかを紙に書き、提出するように求められた。司令室を3日間無人にしておくので、外からは分からないよう封筒に入れ、司令の机の上に置いておくように、との指示だった。

 《考えましたね。志願しちゃえば、確実に死ぬわけですからね。やっぱり親のこととか兄弟のこととか、そういうことが一番先に考えられましたね。それで、嫌だったですね。敵の弾に当たってぶっ倒れるのはしょうがないけど、自分が爆弾背負ってぶつかるっていうのは、僕は嫌だったですね。

 やっぱり僕は戦闘機乗りだから、空中戦やって死ぬのは本望だけど、初めから爆弾抱えて突っ込むというのは、これだけは嫌だって。みんなそうじゃなかったかな。やっぱり空中戦やんなきゃ、戦闘機乗りじゃないからね。

筆者 志願するかしないか、13期の他の同期と話をすることはあったんですか?

 しません。すればお互いに返答に困るわけですね。本心で「俺は特攻したくない」とは言えないし。特攻志願したとしても、でっけえ面して言うのはおもはゆいし。

筆者 誰とも話はしなかったですか。

 しなかったです。みんなそうだったと思いますね。一番困ったのは、同室の同期ですね。同じ部屋で、2人で生活してるんだけど、お前出したかって聞けないわけですよ、お互いに。顔を見て探り合いですよね。》