「特攻」作戦は、なぜ続けられたのか写真はイメージです Photo:PIXTA

爆弾を抱えた航空機による敵艦への体当たり攻撃、いわゆる「特攻」作戦は、なぜ続けられたのか。冷静に振り返れば、その無謀さは明らかである。それでもなお若者たちは空へと送り出され、多くの命が帰らぬものとなった。戦時中は陸軍の報道班員として東南アジア各地に従軍した筆者は、1945年、知覧(鹿児島県)の航空基地に転属。そこで特攻隊員たちの肉声に触れた。※本稿は、高木俊朗『特攻基地 知覧』(角川新書)の一部を抜粋・編集したものです。

志願による特攻隊は
「えらい」「自分にはできない」

「特攻隊員となったのは、志願をしたのですか」

 私は、生残りの特攻隊員にあうたびにした質問を、また、くり返した。河崎広光は指さきのたばこを見つめながら、

「私の場合は、命令できまったのです」

 と、静かに答えた。おとなしい人柄であった。四国の松山市の繁華街、大街道に近い旅館の一室で、私は河崎と長い時間、語りあった。私が船で瀬戸内海を越えている時に、河崎は無線電話をかけてきた。旅館の用意をしたという連絡であった。そうしたことは、気持が行きとどいているというだけでなく、特攻隊のことを語りたいという熱意のようにも感じられた。河崎は終戦後に松山市に帰って以来、市内の新聞社につとめていた。松山市は故郷であった。

 河崎は大正13年7月22日生れで、特攻隊を命ぜられた時は20歳であった。西部第一〇五部隊の伍長で、朝鮮慶尚南道の泗川飛行場で、連日、空中戦闘と航法の激しい訓練をうけていた。

 昭和20年2月1日の朝であった。河崎伍長が内務班長の部屋に行くと、いつもと違ったけはいが感じられた。班長は、

「うちからも特攻隊がでるらしいぞ」

 と、堅い表情を見せた。

 河崎は、前の年に、フィリピンの戦場で陸海軍の特攻隊が出撃したことを知っていた。それが志願によるものだと聞いた時、その人々をえらいと思い、自分にはできないことだと反省した。だが、朝鮮にいるだけに、それほど身近に感じなかった。

命令を伝えられても最初は
どういう意味か分からなかった

「自分は大丈夫ですよ。長男はとらないというじゃないですか」

 と、班長に気軽に答えた。それから、いつものように訓練にでる用意をしていると、部隊長室に呼ばれた。その時、集合を命じられたのは、次の12名であった。

 中尉大櫃茂夫(鳥取県)、少尉宮崎彦次(和歌山県)、同横田正顕(兵庫県)、伍長河崎広光(愛媛県)、同横尾賢二(樺太)、以下兵長、後藤正美(山形県)、佐々木勇(秋田県)、佐藤悌二郎(新潟県)、福家義信(香川県)、今井実(岐阜県)、池田強(岡山県)、岩間勝巳(茨城県)。

 部隊長の佐藤少佐は、整列した12名の前に立って命令を伝えた。