太平洋戦争といえば、沖縄戦に思いを馳せる人も多いだろう。一般住民を含めて20万人超もの人々が犠牲になったこの大惨事は、1944年10月10日、通称「10・10空襲」から始まった。戦後79年目のこの日を迎える今、改めて沖縄界隈に残る戦禍の残滓をレポートする。(フリーライター 友清 哲)
20万人もの犠牲者が出た
国内唯一の地上戦
沖縄は国内唯一の地上戦の現場であり、戦時下に20万人超(※沖縄県の発表に基づく数字)もの犠牲者を生んだ。しかもその約半数は軍属ではない一般住民であり、令和の世にあっても平和教育とは切り離せない地域となっている。
その沖縄戦の端緒が今から79年前、1944年10月10日の午前6時40分から始まった「10・10空襲」である。沖縄大空襲とも呼ばれるこの攻撃は、午後3時45分までおよそ9時間にわたって断続的に続き、1396機のアメリカ軍艦載機が旧那覇市域の9割を焼き払った。
情勢としては、マリアナ諸島を攻略したアメリカ軍が、続いて南西諸島(九州の南方から台湾北東部にかけたエリア)を攻撃対象としたタイミングであり、それまで空襲を受けたことのなかった沖縄は、まさに防衛態勢の構築を急ピッチで進めているところだった。
言葉を変えれば、沖縄はまだ無防備に近い状態でこの大規模空襲を迎え撃たなければならなかったわけだ。
沖縄での戦闘はその後、翌1945年6月23日まで続き、首里城の地下に拠点を設けていた第32軍・牛島満司令官らの自決をもって終結するが、8カ月強の間に一帯は見るも無惨な焦土と化した。
現在の沖縄に、当時の防空壕跡や関連施設跡が多く残されているのは、まさしくその凄絶な惨禍の傷跡である。改めてその遺構をチェックしていこう。