勝家は居城・北ノ庄城に逃げる途中、前田利家の越前府中城に立ち寄っています。
勝家は利家の裏切りを責めることなく、長年の奮闘に感謝の言葉を述べ、さらにはこのあと秀吉を頼るよう言ったといわれます。
4月23日、秀吉軍は勝家の居城・北ノ庄城を包囲します。勝家には織田信長の妹・お市と彼女の3人の娘がいましたが、お市は勝家とともに死を選び、3人の娘は秀吉方に渡されました。翌24日、羽柴軍の総攻撃の前に北ノ庄城は炎上、陥落。
柴田勝家は自刃して果てました。
この戦いに勝ったことで、秀吉は天下人への歩みをまた一歩進め、秀長は美濃守に任官されるとともに、但馬・播磨の2カ国を与えられ、数十万石の大大名になりました。
秀吉の四国攻め――秀長が総大将をつとめた戦い
秀吉は、小牧・長久手の戦い後、当面は家康を放置し、まずは家康と同盟した勢力を片づけるという戦略を立てます。そして、小牧・長久手の戦いの翌年、四国に兵を出します。この戦いでは、秀長が秀吉に代わって、総勢11万もの大軍の総司令官をつとめました。
当時、四国の覇者となっていたのは、土佐の長曽我部元親でした。元親は土佐一国を平定後、その余勢を駆って四国全土をほぼ手中におさめていたのです。
かつて元親は、織田信長と提携関係を結んでいました。天正元年(1573)、対四国の外交責任者だった明智光秀を通じて、「四国は元親にまかせる」という約定を交わしていたのです。まだ、畿内にも敵が多かった時代、信長にとって四国は魅力のない遠方の国だったのです。
ところが、天下統一が視野に入ってくると、信長は例によってその約定を一方的に反故にします。天正10年(1582)、元親には土佐と阿波の一部を与えるので、他の地域からは手を引けと言い出したのです。







