柴田側は、秀吉が木之本の陣から去ったことを察知、柴田軍の先鋒の佐久間盛政が奇襲を主張します。勝家は、秀吉の謀略と機動力を心配しますが、結局、盛政に押し切られ、勝家は深入りしないよう念を押して、奇襲を許可します。
4月19日深夜、柴田方の佐久間盛政隊は、中川清秀の守る大岩山砦に奇襲をかけ、落とします。
その報は20日の午後には、大垣にあった秀吉に伝えられ、秀吉は軍勢をひきつれ、取って返します。大垣から木之本までは50キロ以上ありますが、それをわずか5時間で移動し、午後8時から9時ごろには木之本に戻ったのです。
秀吉は、柴田側の攻勢を予想し、大垣から木之本までの街道に、松明と握り飯を用意させていたのです。その用意周到さこそが、電撃的な引き返しを成功させました。
秀吉の“留守”を秀長が守り抜く
秀長は、むろんこの戦いに参陣し、秀吉が近江を離れ、「美濃大返し」を行う間は、木之本の本陣の臨時の大将として守備していました。
秀吉の予想もしない早い帰陣に、佐久間盛政は大岩山砦の放棄を決定し、撤退をはじめます。羽柴軍は撤退する佐久間隊を追撃したため、柴田軍全体が圧迫を受けました。
柴田軍の陣立てでは、勝家の本隊の前に、前田利家が茂山で陣取っていました。
撤退する佐久間隊を前田利家が自陣に引き入れ、羽柴軍を食い止めれば、戦いの様相は違ったものになったでしょう。しかし、佐久間隊が茂山に到着したとき、前田隊の姿はすでにありませんでした。
前田利家は、消極的な形で柴田勝家を裏切ったのです。利家は長く柴田勝家の指揮下にあり、勝家には世話になっていました。その一方で、昔から秀吉とも仲がよく、利家は勝家と秀吉の間に挟まれ、難しい立場にありました。そして、ギリギリの場面で、消極的な裏切り策を選んだのです。
前田隊の撤退で、柴田軍は本陣までがガラ空きとなりました。秀吉軍は、そこを攻め、勝家の本陣を攻撃すると、勝家の本陣も崩れ、柴田勢は総崩れとなって、北へ逃走をはじめました。







