本能寺の変…そのとき豊臣兄弟はどう動いたか
元親はこれに激怒、反信長の姿勢を示しかけたときに、事態が急変します。本能寺の変が起き、信長が討たれたのです。そのため、近年では、明智光秀が本能寺を襲った動機をめぐっても、この四国統治に関する信長の変節が関係していたという見方が浮上しています。
秀吉も、元親に対して、信長と同様、土佐以外からは兵を引くように勧告しましたが、元親はこれを無視します。
それで、秀吉は、秀長に大軍勢を率いさせて、攻め入ったのです。両者の戦いはあっけなく決着がつきました。秀長率いる秀吉方の圧倒的な兵力は、1カ月足らずで元親を追い詰めます。元親はいったんは降伏を拒みますが、家臣たちはもはや勝ち目がないと断念。元親は、重臣の意見を聞き入れ、降伏に同意、四国の他の地から兵を引き上げ、土佐一国を安堵されることになりました。
秀長は、その頃、紀伊・和泉64万石を領地としていましたが、前回述べたように、この四国攻めの功績で、大和国を加増されて100万石に達したといわれます。
また、官位は従二位権大納言に昇進し、以後、「大和大納言」と呼ばれるようになります。
新領地の大和は、もともと寺院勢力の強い土地であり、難治(統治が難しい)の国とされていました。秀長は、さまざまな勢力の訴えに耳を傾け、公正な判断を下して、巧みに統治します。また、寺社勢力の武装解除にも努める一方、かつて筒井順慶が築いた大和郡山城を拡張しました。
秀吉にすると、大和国は大坂防衛上、ひじょうに重要な土地なので、最も信頼できる実弟に統治をまかせ、また守りを固めるため、城の拡充を急がせたのでしょう。








