多くの人々が映画に求めるのは「監督の作家性」ではなく「特定の世界観」
このギャップは簡単に説明できる。この種の映画ファンは、映画館に「監督の作家性」を観に行っている。対して多数の一般客は「特定の世界観」を体験しに行っている。
例えていうなら、ディズニーランドのアトラクションだ。あれらは特定の作品なり、特定の場所や時代なりの世界観に没頭するためのコンテンツである。『くまのプーさん』の世界観をできるだけ忠実に再現する乗り物として作られたのが「プーさんのハニーハント」だ。
そのアトラクションを「誰が」作ったのかを気にする人は、ほとんどいない。実際には、ライド(乗り物)やショーやパレードを設計・施工あるいは企画・演出した人たちがいるはずだが、そこに注目が集まることは、まずない。「プーさんのハニーハント」を誰が作ったかが論じられることはない。
どちらかと言えば注目が集まるのは、アトラクション内のガイドやパフォーマンスをする演者、つまりキャストのほうだ。これは『鬼滅の刃』の声優や主題歌といったパフォーマーのほうが監督よりも比較的注目を浴びる、という状況に似ている。「ミッション:インポッシブル」なら主演を務めるトム・クルーズだ。
『鬼滅の刃』も『名探偵コナン』も『ミッション:インポッシブル』も『ハリー・ポッター』も、評価が確立された原作なり長期シリーズなりの蓄積がある。つまり強固で緻密な世界観が確立されている。映像化にあたって求められるのは、その確立済み世界観を正確にトレースすることであって、監督の作家性を発揮することではない。
もともとのファンに「それは違う」と言わせてはいけない。1mmたりとも改変してはいけない。「原作に忠実」こそ絶対。監督の作家性はむしろ邪魔となる。
ライドの設計・施工に寄せるなら、この手の映画の監督は「現場監督」に近い。施主のオーダーを正確に具現化する実行者だ。
劇場版第一作「鬼滅の刃 無限列車編」も大ヒットした。ちなみに、最新作の「無限城編」と同じ監督だ Photo:Diamond
『アナと雪の女王』も、Netflixの大ヒットドラマも、監督名は知らない
映画ファンやアニメファン以外の一般層が、映像作品の監督が誰であるかを特に気にしないという傾向は、今に始まったことではない。日本国民の大半は、宮崎駿や庵野秀明や新海誠や細田守といった著名アニメ監督を除いて監督で映画を観てはいないし、ディズニーアニメやピクサー作品の監督なども、大半の人は気にしていないだろう。国内で254億円の興収を記録して社会現象になった『アナと雪の女王』の監督名を言える人が、どれほどいるだろう?
映像エンタメの「重要作」「話題作」が、映画から徐々に配信ドラマへと移っていったあたりから、監督を気にしない風潮はさらに強まったように感じる。連続ドラマの場合、監督にあたる各話演出担当が複数人いることも多く、映画以上に「誰が作ったのか」が気にされる環境にないからだ。







