しかし、被爆者たちが不条理な多くの死に直面し、一生消えない後障害への不安を抱えている現状は、変わらない。戦後も多くが原爆特有のトラウマに苦しみ、深く傷つけられてきた。
東京都文京区にある一般社団法人「東友会」の事務所には、広島・長崎で被爆した後に東京で暮らした被爆者の手記や診断書などの記録が保管されている。
あるファイルにとじられた資料に、こんな言葉が記録されている。
《あの日の惨状に接して、「人間が人間に対してこんなひどいことをする」ということで、人間そのものが信じられなくなった》
皮膚が剥けて垂れ下がっている
避難者は地獄の幽霊に見えた
1926年生まれの故・吉本寛三の言葉だ。吉本は1945年当時は19歳。都内の大学に通う学生だったが、病気で休学し、郷里の広島で療養していた。自宅は、爆心地から2.8キロのところにあった。原爆が投下された時、吉本は自宅で寝ていた。
《家屋は傾き爆風方向の壁は全部突き抜ける》
《直後、市の中心部から避難してくる人々が両腕を前に捧げ、近くに来て、重度の火傷のため皮膚がすっかりむけて垂れ下がっていることに気づいたが、地獄の幽霊としか思えなかった》
翌日、吉本は爆心地近くを通って親友の家族の安否を尋ねに行っている。訪ねた家は崩れ、親友の家族の消息は不明だった。
《道中真黒こげの死体や、死体の目や鼻からはい出す蛆に思わず目をそむける》
隣町に住む、当時6、7歳だったおいは、顔のやけどと、全身打撲による重傷を負った。
うわごとに「B(爆撃機B29)の奴が」と叫び、苦しんで転げ回り、被爆から4日後に亡くなった。遺体を収めた小さな棺を大八車に載せて近くの丘に運び、穴を掘ってまきを組んで荼毘に付した。
《まわりに同じ火煙が何十となく立ち上っているのを見たときは、暗たんとした気持におそわれた》
《その屍臭は今でこそ忘れたが、戦後も相当永い間ふと記憶によみがえることが続いた》
外傷は負わなかったものの
倦怠感や心身の不調に悩まされる
調査票や、聞き取りをした相談員によると、吉本は両親と兄、姉を含む家族全員が被爆した。吉本自身に外傷はなかったが、その後倦怠感などの心身の不調に悩まされた。季節の変わり目には必ずと言ってよいほど風邪をひき、症状は1カ月以上続いた。「無感動な、抑えつけられたような気分」が続き、物事を考えようとしても集中できなくなった。







