吉本は敗戦後の1945年9月に復学したものの、都内の大学の寮に戻ると、ほとんどの私物が盗まれていた。「広島からもう二度と戻ってこない」と思われていたらしい。2年後の1947年秋頃からは、不眠に悩まされるようになり、1948年には統合失調症と診断されて入院した。なんとか1950年の春に復学したが、その1カ月後に朝鮮戦争が勃発する。

《「また戦争が始まった」と前途に希望を失って退学した》

 吉本は二度、睡眠薬で自殺を図った。1957年に父が肝臓がんで死亡し、翌年から「単純事務労働者」として働き始めた。

《10年のハンデキャップは到底縮まることはなく。いつも高校大学卒初任給程度の収入しか得られなかった》

《転職7回。いずれも自分から止(原文のママ)めたことは一度もない。(中略)肝臓が悪いのではないかと検査のため1カ月入院しただけでかく首されたこともある》

 さらに、1967年には不安神経症、1982年には抑うつ反応で半年ほど入院した。それ以外にも1カ月を超える入院を繰り返した。

 1980年に友人の被爆者が亡くなった。その時の心境を、吉本はこう書いている。

《自殺とも、事故死とも言われた。彼のように自分もなるのではないかと恐れ続けた》

50代半ばだが職を得られず
生活保護を頼りに暮らした

 東友会は、東京に住む被爆者が1958年に結成した。その4年後の1962年以降、専門の相談員を配置し、都から被爆者相談事業の委託を受け、年1万件以上の相談に対応している。

 相談の内容は多岐にわたる。

「被爆者であることを隠して生きてきたが、最期は被爆者健康手帳を取得し、被爆者として死にたい」「原爆により身寄りがなく、老後の生活や死後が心配」など。近年は被爆者の高齢化に伴い、被爆者の子どもにあたる「被爆2世」からの問い合わせも増えている。

 会はこうした相談内容や手記、被爆者の病歴などを「カルテ」と呼んで残している。故人も含め、7000人分ある。吉本の言葉も、東友会が1977年に送ったアンケート用紙や、被団協が1985年に実施した「原爆被害者調査」に記されていたものだ。