「やせていて暗くて、言葉も少ない。自分のことはほとんど語りませんでしたね」。東友会で相談員を40年以上務める村田未知子(74)は、吉本のことをそう振り返る。村田が会に携わるようになった1982年には、吉本はすでに集会に顔を出していた。当時吉本は50代半ばだったが、定職に就けず、生活保護を受給しながら都営住宅で暮らしていた。

「ふだんは本当に穏やかな方なんだけど、時々逆鱗に触れるというか。突然ものすごく大きな声で怒鳴ることがありました」と村田は述懐する。

被爆者は原爆が落とされなければ
どんな人生を歩んでいたのか

 吉本は生涯独身で、心の支えは1978年に亡くなった母親だった。

《子どもに生き続けてほしいと願う母親の思いを汲んで、いまも生き続けているのではないかと思います》

 調査票に吉本はそう記している。

 晩年の吉本は会に顔を出さなくなった。カルテに残る最後の記録は2010年8月10日だ。かかりつけの病院からの連絡によると、病院を受診後、駅前で座り込んでいる吉本を関係者が見つけ、連れ戻した。連携する地域包括支援センターの相談員が訪れた吉本の部屋は、「長靴を履かなければ入れない状態」だったという。

 その後吉本は入院し、翌2011年の4月に84歳で息を引き取った。

 村田は、吉本の寂しげなたたずまいをよく覚えている。「当時、大学に通えるほどお家柄も良かった。もし原爆に遭っていなかったら、どんな人生だったんだろうと思います。あの日から、誰のことも信頼できなくなってしまった。彼の心は原爆で壊されてしまったんです」と村田は言う。

 原爆投下当時、広島市には約35万人がいたと考えられている。爆心地から1.2キロメートルでは、原爆投下当日に推定でほぼ半数が死亡した。生き延びた人々も、何十年経っても癒えない深い傷を負っている。

 朝日新聞が戦後60年の2005年に行った被爆者アンケートでは、76%の人が被爆体験を日常生活の中で思い出すと回答。自殺を考えたことがある人も10%いた。