普通なら、絶望の底に沈んでもおかしくない。しかし、安藤氏は「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身についた」と自らを奮い立たせたという。この不屈の精神こそが、すべての始まりであった。
スーパーマーケットの普及とテレビCMが追い風になった
安藤氏は、終戦直後の大阪の闇市で、1杯のラーメンを食べるために人々が寒空の下で長い行列を作っている光景を目にしていた。
「食がなければ、衣も住も、芸術も文化もあったものではない」。食こそが人間の根本であると痛感した経験が、安藤氏を「食」の事業へと突き動かす。
安藤氏が目指したのは、「お湯があれば家庭ですぐ食べられるラーメン」という、当時まだ誰も実現できていない夢であった。
自宅の裏庭に建てた小さな小屋で、安藤氏はたった1人で研究開発を始める。道具も材料も自ら探し集め、1日の平均睡眠時間は4時間。丸1年間、1日の休みもなく研究に没頭した。まさに死にものぐるいの日々であった。
1958年8月、「チキンラーメン」は発売される。しかし、すぐに大ヒットしたわけではない。当時、うどん玉が6円の時代に、チキンラーメンは1食35円。あまりに高価で、問屋は仕入れを渋ったという。
だが、実際に食べた人々からの「おいしくて便利だ」という声が、状況を逆転させた。
折しも、日本に登場したばかりのスーパーマーケットという新しい流通網、そしてテレビコマーシャルという新しいメディアの波に乗り、「魔法のラーメン」と呼ばれたチキンラーメンは、爆発的なヒット商品となった。
48歳で全てを失った男が、たった一人の執念で生み出した発明。安藤氏の「最後まであきらめない執念」が、日本の食文化に革命を起こしたのである。
安藤氏の姿は、不屈の執念を持つ偉大な発明家、時代の流れを読む先見性のある経営者、という輝かしいものである。
しかし、安藤氏が残した言葉を見てみると、私たちは別の顔に気づかされる。それは、極めて厳格な「管理者」としての顔である。







