それもそのはずで、「親子の遺伝率」と「親子が似る確率」は、まったく異なる現象を表した尺度だ。「遺伝率」が「ある特徴をどれくらい遺伝で説明できるか?」を集団のなかで見る数字なのに対して、「親子が似る確率」はあくまで「親と子」という個人の間での話を扱っている。
たしかに、子供は両親から半分ずつ遺伝子をもらうが、どの遺伝子を受け継ぐかはほぼランダムに決まるし、特にIQのような特性には複数の遺伝子の組み合わせが影響する。こんな複雑な現象を遺伝率だけで判断するのは、全国の平均気温を見て「今日の自分の家の温度は何度だろう?」と推測するようなものだ。
言い換えれば、遺伝率は「私のIQには遺伝と環境のどちらが影響しているのか?」という問いにはまったく答えてくれない。遺伝率は「集団全体のばらつきの話」であって、あなた個人とは関係がない数字だからだ。
ごくまれなケースを除いて
「遺伝率を使う価値はない」
以上のような誤解について、ピッツァー大学の心理学者デビッド・ムーアは、2016年の総説でこう述べている。
「『遺伝率』という用語は、現代のヒト行動遺伝学において、科学史上“最も誤解を招きやすい概念”のひとつである。我々はすでに、遺伝的な要因があらゆる人間の特性の発現に重要な影響を与えていることを知っているため、ほとんどの場合において遺伝率は価値がない」
『社会は、静かにあなたを「呪う」 思考と感情を侵食する“見えない力”の正体』(鈴木祐、小学館クリエイティブ)
遺伝率という言葉は、人間の行動や能力を説明する際に誤解を招きやすいし、ごくまれなケースを除いて使う価値がない。遺伝率を測っても大きな意味はないし、むしろそれを使い続けることで、私たちは自分の能力を伸ばす方法を誤って理解してしまうーーそんな批判だ。
ムーアが言う「ごくまれなケース」とは、たとえば特定の農作物の収穫量を遺伝子改良で増やしたり、特定の遺伝子変異による病気のリスクを評価したりといった状況を指す。
たしかに、遺伝率が役に立つ場面は非常に限られており、これを私たちの「特性」や「能力」を判断するために使ったところで、人間の可能性を無駄に縛るだけにしかならないだろう。ムーアの指摘には反論の余地もあるが、少なくとも遺伝率を人間の能力にまで当てはめて、「人生の残酷さの証明」のように語っても意味がないのは確かだ。







