メガホンで訴える男性と群衆の抗議デモ写真はイメージです Photo:PIXTA

かつて日本が国策を誤った昭和ファシズムの時代。その前夜には、社会にリベラルな空気があふれた大正デモクラシーがあった。個人の自由や権利、平和への志向を抱いていたはずの人びとは、なぜファシズムのバスに駆け込むように乗り込んでしまったのか。慶応大学・井手英策教授が読み解くのは、“ファシズム前夜”にひそむ社会の構造と、人々を極端へと向かわせたその力学である。※本稿は、財政学者の井手英策『令和ファシズム論――極端へと逃走するこの国で』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。

大正デモクラシーの到来に
危機をおぼえた若手将校たち

 大正デモクラシー期の財政を見ると、第一次世界大戦以降、軍事費をへらし、かつ積極と緊縮を繰りかえしながらも、全体として見ると、財政の経済にしめる地位は、上昇をつづけてきた。

 政治的には「憲政の常道」がさけばれ、政党政治はなやかなりし時代だったし、社会的にも、社会主義思想の広がりにささえられて、労働運動や農民運動が活発化し、山梨軍縮(編集部注/加藤友三郎内閣の陸軍大臣・山梨半造により、1922年=大正11年8月と翌23年=大正12年4月の2度にわたって行われた、日本陸軍史上初の軍縮)、宇垣軍縮(編集部注/加藤高明内閣の陸軍大臣・宇垣一成により、1925年=大正14年に行われた陸軍の軍縮)など、平和への志向もつよまっていた。

 大きな流れでいえば、社会全体が左傾化、あるいはリベラル化した時期だったといえそうである。

 ところが、これらのうごきに危機感をおぼえた軍部の若手将校や右翼の活動家たちは、国家改造をうったえはじめ、その後のクーデターやテロの温床となっていった。彼らの決起をうながしたのは、昭和恐慌による社会の混乱であり、政党の腐敗や財閥の反社会的行動であり、満州事変であった。歴史の振り子は、おおきく左から右へとうごこうとしていた。