だが、高橋財政期を右と軍国主義一色の時代ととらえるとすれば、それはあやまりである。帝国議会では軍部にたいする批判の声があがっていた。陸海相が民心のはなれることを心配し、「軍民離間」を非難する声明をださざるをえなかった事実は、彼らが社会、国民からの批判をおそれていたことのあかしである。

 また、高橋是清(編集部注/1913年=大正2年~1936年=昭和11年の多くの期間、大蔵大臣を務める。1921年=大正10年~1922年=大正11年の間、内閣総理大臣を兼任)も、野放図な財政膨張に歯どめをかけようと体をはってたたかったし、その過程では軍部への批判をいとわなかった。

軍の派閥と政党が
手を組んでライバルに対抗

 問題だったのは、こうした過渡期、「ファシズム前夜」の状況にあって、政党政治が権力闘争にあけくれていたことである。支出と収入を対応させ、さまざまな主体がそれぞれに役割と権限をもちながら、総体として予算はコントロールされる。これを私たちは「予算統制」とよんだが、そうした統制はおろそかにされ、反ファシズムの旗がたつどころか、反対に、政党、軍部、官僚がそれぞれにつながりをつよめつつ、政治対立が再生産されていた。

 陸軍でいえば、皇道派(編集部注/陸軍内に存在した派閥。天皇を中心とする日本文化を重んじ、物質より精神を重視していた)が大きく右によっていき、その反動として、計画経済志向をもつ統制派(編集部注/陸軍内に存在した派閥。ドイツ参謀本部の影響が濃く、中央集権化した経済・軍事計画、技術の近代化・機械化を重視していた)が左派的とも見える主張をおこなうようになった。

 荒木貞夫(編集部注/皇道派の代表格)の失政、陸軍パンフレット問題、士官学校事件などで、双方のパワーバランスが統制派にかたむくなか、与党化した民政党(編集部注/立憲民政党:「議会中心主義」を標榜)、左派政党である社大党(編集部注/社会大衆党:労働者や農民の立場に立つ)、そして革新官僚がこれと手をくみ、反対に、政権からとおざけられていた政友会(編集部注/立憲政友会:議会制民主主義を掲げつつ、「皇室中心主義」を標榜)と陸軍内での発言力をよわめつつあった皇道派とが結束した。政治闘争は目的化し、左右の思想や政治的な理念の垣根は溶解しはじめようとしていた。