ちぎった食パンを覗く子どもPhoto:Westend61/gettyimages

ファシズムや全体主義は、遠い過去の記憶なのか。いま、民主主義を高らかに謳い、〈私たち〉の再生を訴えるポピュリズムが、じわじわと世界、そして日本の政治を蝕みつつある。選択肢の喪失。自由の死。「令和時代のファシズム」とは何か。気づいたときにはもう遅い……財政学者・井手英策が危機の実相を浮き彫りにする。※本稿は、財政学者の井手英策『令和ファシズム論――極端へと逃走するこの国で』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。

戦後社会の安心と
その裏で失われた危機感

 ファシズムや全体主義が世界を席巻したのは、いまから100年ほど昔のことである。そして、戦後の先進各国では、その悲惨な体験に学びながら、ファシズムや全体主義の再来を阻止するための努力がかさねられてきた。

 各国は民主的な憲法をつくり、制度的に国家の権力を分散させてきた。生存権や教育を受ける権利などの社会権が定着し、戦後に確立した「福祉国家」は、生活不安を社会不安に直結させないための防御壁として機能した。国外でも、戦前の国際連盟の反省のもと、さまざまな基金、計画、専門機関をもつ国際連合が創設され、これを中心として、世界秩序を形成するための政治システムが構築されてきた。

 日本とてこの流れの例外ではない。私たちは、あらたな憲法秩序のもと、不戦のちかいを立てた。巨大な権限があたえられ、国民の監視・支配をおこなってきた内務省は解体された。アメリカの介入があったし、その後の政治的なゆりもどしもあったが、教育、労働、市場、農業、さまざまな分野で戦前とは大きくことなる民主的な制度がととのえられてきた。