リーダーシップに頼り切った
「政治の貧困」

 このように、統制派・民政党・社大党、皇道派・政友会が、それぞれ距離をつめつつあるなか、高橋財政後期の緊縮局面において、政党が軍事予算の削減に手をかすことは、当然、むつかしかった。したがって、議会による予算統制が弱まっていったことと、政党ではなく、高橋がひとりで「健全財政の守護者」の役まわりを演じなければならなかったこと、そして、大蔵省による予算統制が、質から量へと基準をかえながら、相対的につよまっていったことは、相互に作用しあった問題として理解されるべきである。

 だが、リーダーシップといえば聞こえはいいものの、ある人物に財政の舵とりをまかせてしまえば、おかれた状況や当人の好ききらいによって、恣意(しい)的な予算配分がおこなわれるかもしれない。高橋は、政策運営の後半期に軍部とはげしく対峙したが、前半期には、軍部をいさめつつも、彼らに寛大な予算配分をおこなっていた。

 日銀引受によって財政が急激にふくらんでいくなか、どんぶり勘定になってしまった面はあるだろう。だが、農村予算にたいしては、けっして同様の寛容さを示さなかったし、そのことが若手将校のいかりに火をつけた。二・二六事件の凶弾が「健全財政の守護者」の命をうばったが、その一因は、高橋のリーダーシップにたよりきった「政治の貧困」にあったのである。

軍事支出にメスは入らず
農村対策は放置のまま

 大蔵省に予算統制をまかせた結果についても考えておく必要がある。こまかい予算配分は犠牲となり、悪性インフレをさけるために総額=量をどのようにおさえていくか、という技術論が、民主的対話=質よりも前面におしだされた。これはインフレ抑制が至上命令だった戦時期の財政運営につながる重要な事実である。

 戦時財政では、日銀引受が財源調達の前提となり、国民の消費をおさえ、物価を安定させるために、財政の上限にどうやって枠をはめるかが問題とされた。財政の質ではなく、量をどのようにコントロールするかに力点がおかれたことは、高橋財政が資金統制に振りまわされた戦時財政の準備期にあたることを意味していた。1936年度の予算編成時に主計局長を務めた賀屋興宣が37年に大蔵大臣になったとき、スムーズに計画経済を提唱し、実施できたのには、理由があったのである。