ふりかえると、小泉純一郎元首相が有権者から圧倒的な支持をうけたころから、「この人なら世の中をかえてくれる」という「英雄待望論」が見られるようになっていった。いわゆるネット右翼が政治に影響をおよぼすようになったのもこのころであり、その後、メディアやSNSをたくみに使いこなしながら、不特定多数の支持者をひきつける指導者を熱烈に支持する、〈小さな権威主義〉ともいうべき政治状況が立ちあらわれた。
多様化するチャンネルが
もたらした「小さな権威主義」
ここでいう権威主義は、エーリッヒ・フロム(編集部注/ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者)の定義にもとづいている。すなわち、指導者の権威をたたえ、服従するいっぽうで、みずからが権威であろうとし、他者を服従させたいと考える人間の志向を表現するものである(*注1)。しかも、これは偉大な独裁者をもとめるものではなく、比較的身近で、SNSなどで交流可能な、閉じられた世界で成立する権威主義である。それゆえ、私は〈小さな権威主義〉とよんでいる。
〈小さな権威主義〉がファシズムと決定的にことなるのは、その歴史的な前提条件である。現代の日本では、メディアのチャンネルが多様化しており、ナチ党がときには芸術をも動員しておこなったようなプロパガンダによる洗脳は容易におこなえない。小説家から漫画家までを動員しておこなわれた政府による国策、市民生活の変革をつうじたファシズム的な政治体制の再編成もまた、しかりである(*注2)。くわえて、あからさまな暴力の行使は、韓国の尹錫悦大統領(当時)による「非常戒厳の宣布」を見ればわかるように、国民のつよい反発を生みかねない。
さらにいえば、私たちの憲法は、戦時期の反省をいかしたものであり、ひとつの国家的な意志が国民をたばねることは制度的にも困難になった。日本国憲法第2章の戦争の放棄だけでなく、第3章の国民の権利及び義務、そして法をつらぬく三権分立の精神をみれば、それはあきらかなはずである。
このように、戦前とこんにちとでは前提がことなっており、絶対的な権力をもつ独裁者の登場を予想することは、まずできない。それゆえ、めったにお目にかかれない偉大な独裁者ではなく、ときに気楽に、SNSでコメントをよせてくれるような〈身近な指導者〉があちこちに生みだされることとなる。そして、社会的な関心や雰囲気の変化しだいで、指導的地位にあるものは、あっさりとべつのだれかにおきかえられる。
*注1 フロム「自由からの逃走」日高六郎訳、『世界思想教養全集15』河出書房新社、1962、98ページ
*注2 大塚英志『「暮し」のファシズム』筑摩書房、2021







