民主的な土俵にいながら
異なる主張には耳を貸さない

 指導者は、思想的な拠りどころをもたず、強烈なイデオロギーを主張することもなく、多数者の船着場となるような、最大公約数的な政策をうったえる。これはポピュリズムの問題であるが、既存の議論との違いをわかりやすくするため、彼らは、確信犯的に〈極端への逃走〉をくわだてる。ちなみに、彼らは、左派や右派の思想的な垣根をやすやすとこえていくが、他方で、さまざまな極端な主張にあって、有権者の関心をひくために、財政出動を積極的にうったえる点は、国の内外を問わず共通している(*注3)。

〈身近な指導者〉たちは、あやまった情報を公然と拡散し、ときには法にふれるような行動さえ辞さない。有権者もまた、思想的、政策的な内容よりも、情報の発信力を重視する。むろん、拡散される情報をうけいれるか、無視するか、反論するか、有権者に選択の自由はあたえられている。だが、反論する場合には、〈身近な指導者〉を支持する人たちから、ネットにおける誹謗中傷などの精神的な攻撃、報復をうけるリスクを覚悟しなければならない。こうして、違和感をもちつつも、沈黙するおおくの人たちを生みだしていく。

〈身近な指導者〉とその支持者たちは、ナチ党がそうだったように、制度的には民主的な土俵のうえで行動しようとふるまう。だが、対話を冷笑し、論破を目的としているという意味では、非民主的な性格は否定しえない。批判者の主張を否定することが目的である以上、批判されるほうもまた、相手の主張に耳をかたむける義務をおわないのであり、結果、論難合戦となって、民主的な意思決定が成りたたなくなるからである。

 近年、さまざまな政治主体による新党結成話がネットをにぎわせるようになった。だが、党首と目される人物以外の政治家は、発言を取りあげられる機会が極端にすくなく、私たち自身、あたらしく生まれた党にどのような政治家が所属しているのかすらわからないことがある。あちこちで特定の人物の発言だけが取りあげられ、それらがときには法にふれ、対話を否定するものであるとするならば、それは、ファシズムとはまたちがった形態での民主主義への挑戦である。

*注3 東島雅昌『民主主義を装う権威主義』千倉書房、2023