量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。今回は量子マネーのはじまりについて抜粋してお届けする。
Photo: Adobe Stock
量子マネーの夜明け
量子コンピュータの研究が立ち上がった1980年代の前夜、意外な分野で量子力学を使った研究が密かに行われていた。
1970年代にコロンビア大学の大学院生、スティーヴン・ウィズナーは、量子力学の原理を利用した偽造不可のお金「量子マネー」を提案した。
貨幣はもともと、金や銀といったそれ自体が希少価値を持つ貴金属でその価値を担保していた。
仮に、偽造を試みたとしても、重さや純度を測ることでそれを検知することができる。
ただ、金貨や銀貨は重く、持ち運ぶことが難しいため、大きな取引には向いていない。
そこで登場したのが、紙でできた「紙幣」である。
紙幣は軽く持ち運びにも便利であると同時に、発行のコストも低く、流通の制御が容易だ。
しかし、金や銀とは異なり、物質としては紙であるため、紙幣が本物かどうかを保証することが重要となる。
このため、紙幣には透かしや、特殊インクなど最先端の偽造防止技術が使われている。
しかし、どのような技術を尽くしても、原理的に偽造が不可能な紙幣を作ることは難しい。
このようなお金を、量子情報を用いた物理法則によって偽造から保護するというアイデアがウィズナーによる量子マネーだ。
なぜ偽造を防げるのか?
量子状態は、完全なコピーを作ることが不可能である。
そこで、発行者はそれぞれのお金に固有の量子状態を作って記録する。
記録されたパターンに基づいて観測をし、正しい結果が得られればその量子マネーは正当なものだとわかる。
もし、だれかが偽造をしようと観測した場合、どのようなパターンで記録されているかわからないため、その状態を壊してしまう。
たとえば、白色と黒色になるカメレオンがいるとする。
右から観測すると白色、左から観測すると黒色になる。
正しい観測の仕方が、右から観測して白色だと確認することだった場合、間違えて左から観測してしまうとカメレオンは黒色になってしまい、白色になることはない。
1匹のカメレオンであれば偶然正しい観測によって白色になる可能性もあるが、1000匹のカメレオンの色をすべて偶然に当てることはほぼ不可能だ。
つまり、下手に観測すると壊れてしまう(結果が変わってしまう)量子の性質を、秘密の情報を埋め込むために利用しようというのだ。
時代を切り開くアイデア
当時、量子力学はミクロな世界を説明する物理法則としては受け入れられていたものの、個々の量子に情報をのせる「量子情報」という概念はまったくなかった。
そのようななか、量子に情報をのせるだけではなく、その量子性の脆さに基づいて、情報を保護するというウィズナーの着想は、まさに時代の先取りであった。
この革新的なアイデアは長い間評価されることなく埋もれていたが、後にIBMのチャールズ・ベネットとモントリオール大学のジル・ブラッサールらが掘り起こし、「量子暗号」という分野を切り開いていくことになる。
(本稿は『教養としての量子コンピュータ』から一部抜粋・編集したものです。)





