長時間労働に追われていた新聞記者が、39歳で移住したデンマークで見たのは、午後4時台に渋滞する帰宅ラッシュだった。大企業の管理職や官僚、外科医といった“日本では特に多忙とされる職業”の人たちまでもが、当たり前のように3時半~4時台に保育園へ子どもを迎えにくる。にもかかわらず、デンマークの一人当たりGDPは日本の約2倍、IMD世界競争力ランキングでも常に上位だ。この「短時間労働なのに高い競争力」という一見矛盾した世界の謎を追い続けてきたのが、新刊『第3の時間──デンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術』の著者・井上陽子さんだ。「ゆるく見えるが、実は極めて合理的」なデンマークの労働観について話を聞いた。(取材・構成/ダイヤモンド社書籍編集局)

「あなたと仕事はイコールじゃない」“働きすぎの私”の労働観を変えた、あるママ友の一言写真:井上陽子

デンマークに「延長保育」が存在しない理由

 保育園の閉園時間は、デンマークの短時間労働社会の象徴ともいえる。幼稚園や保育園には延長保育がなく、午後5時で閉園する。しかも閉園ギリギリに迎えに来る親はほとんどいない。

「お迎えのピークは3時半から4時ぐらいなので、4時半ぐらいになると、もう先生たちが閉園の準備をしていて、親が『すみません!』と頭を下げながら迎えに行く感じです」

 デンマークではフルタイムの共働きが一般的だ。にもかかわらず、なぜ、日本のような延長保育がないのか。井上さんが親たちに尋ねたところ、逆に質問で返された。

「『なんで延長保育をしてまで働く必要があるの?』『子どもと一緒に過ごす時間を過ごしたくないの?』と、素朴に聞き返されました」

 そこには、日本とデンマークの「時間の優先順位」の根本的な違いがある。

「日本では仕事が最優先で、プライベートは“二の次”という感覚があるように思うんです。子どもとの時間や自分の時間は、仕事の後の“余った時間”の中で確保するものだと」

 対してデンマークでは、子育ての時間は「最初から確保している、優先順位の高い時間」と位置づけられている。

「幼い子どもと過ごせる時期は、本当に短くて貴重だからこそ、その時間をしっかり味わいたい、と思っているんですよね。仕事に余裕があるから早く帰るのではなく、むしろ仕事以外の時間が仕事以上に重要だと思っているから、仕事は完璧でなくても定時で終わらせる。限られた時間の中で、どうにか仕事のつじつまを合わせているわけです」

「あなたと仕事はイコールじゃない」“働きすぎの私”の労働観を変えた、あるママ友の一言井上陽子(いのうえ・ようこ)
ジャーナリスト、コミュニケーション・アドバイザー
筑波大学国際関係学類卒業後、読売新聞社に記者として入社。社会部で国土交通省、環境省などを担当したのち、ワシントン支局で特派員を務める。読売新聞在職中に、ハーバード大学ケネディ行政大学院修了。2015年、妊娠を機に夫の母国であるデンマークに移住。ビジネス・インサイダーなどメディアへの執筆のほか、デンマークの経済社会や働き方に関する講演、日本とのビジネスに取り組むデンマーク企業などのサポートも行っている。共著に「『稼ぐ小国』の戦略 世界で沈む日本が成功した6つの国に学べること」(光文社新書)。

時間の使い方だけでなく、アイデンティティの問題だ

 これは単なる時間管理に限った話ではなく、「自分は何者か」というアイデンティティの問題でもあると井上さんは考える。

「仕事上の自分だけでなく、親としての自分、パートナーとしての自分、友人としての自分。デンマークの人は、こうした“仕事以外の自分”も、仕事上の自分と同じくらい大切にしています。1日の大半を仕事にささげなくてもデンマーク経済がうまく回り、しかも自由時間を謳歌しているのを見ていると、もしかすると自分はそれまで苦しい生き方をしてきたのかも、と振り返るようになりました」

 ワーキズム(仕事主義)という言葉がある。アメリカの政治経済誌「The Atlantic」の記事をきっかけに広まった造語で、仕事に給料だけでなく、自己実現といった精神面での充実も求めるようになり強い帰属意識を抱く文化的信念だ。仕事をまるで自分のアイデンティティそのものとして扱うような考え方である。

「この国に住んではじめて、私自身がかなりワーキズム的な生き方をしていたと気づくようになりました。自分の時間やエネルギーを、仕事上の自分に過剰に投資する一方で、親としての自分、仕事以外のコミュニティの一員としての自分を軽んじてきた部分がありました」

 驚くべきは、学校のクラス運営のために自主的な保護者会を頻繁に開催する親たちの姿だ。

「平日の午後5時からといった時間帯に、保護者が自主的に集まって、クラスの問題について話し合うんです。父親と母親の参加率は半々。彼らは皆、フルタイムで働いています。デンマークの人たちは、こうした取り組みも、自分の暮らしを良くする重要なことだと、仕事と同じくらい大切にしているところがあります」