量子コンピュータがもたらすインパクトは、計算速度だけでは語り尽くせない。
国家の機密通信から私たちの日常的なオンライン決済まで、社会のあらゆる場面を支えている「暗号」は、量子技術の進歩によって根本から見直しを迫られている。いま理解しておくべきなのは、量子が“脅威”であると同時に“守り”を強化する味方にもなるという事実だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授・藤井啓祐氏が、この大きな転換点をわかりやすく、かつ面白く解説している。
本記事では、量子計算と暗号の関係についてその一節を紹介する。
Photo: Adobe Stock
暗号が解読されてしまう?
量子コンピュータが注目されたきっかけの一つは、1994年に数学者のピーター・ショアが発見した素因数分解アルゴリズムである。
従来型コンピュータと異なる原理で計算する量子コンピュータを前提とすれば、素因数分解やそれを一般化した数学の問題を、効率よく解けることが証明できる。
つまり、これらの問題は量子コンピュータにとっては簡単な問題であり、完全な量子コンピュータが登場すればRSA暗号やビットコインの署名に使われている楕円曲線暗号は解読されてしまうリスクがあるということだ。
できないからといって安全ではない
もちろん、現時点の量子コンピュータでは、これらの暗号を解読するには至っていない。
とはいえ、「現在の技術レベルで安全だから良い」とそのまま放置していい話ではない。
仮に二十年後にこの規模の量子コンピュータが実現したとして、そのときに二十年前、つまり現在の国家間の秘密のやりとりなどがすべて解読されてしまうようでは困る。
現段階で未来の技術を予測して耐性のあるような暗号化方式を採用していくことが重要だ。
そこで、量子コンピュータの計算性能でも解読に時間がかかるような「耐量子暗号」を新たに標準化しようという取り組みが、アメリカ国立標準技術研究所を中心にここ数年進められている。
2024年8月に標準方式が定められ、グーグルやエヌビディアなどのアメリカIT企業によって耐量子暗号の実装に向けた連携体制が立ち上がっている。
量子情報処理の知見は、計算能力という矛としての機能だけではなく、耐量子暗号に代表される盾、つまりセキュリティなど情報の質の向上にも貢献するのだ。
「量子暗号」とは?
一方で、量子力学的な原理を利用した「量子暗号」の開発も進んでいる。
量子暗号は、量子コンピュータによる攻撃はもちろん、いかなる解読に対しても高い耐性を持っている。
量子力学という物理法則に反しない限り、解読することができない暗号である。
チャールズ・ベネットとジル・ブラッサールが、1980年代に開発した「量子鍵配送(QKD:Quantum Key Distribution)」は、その代表例だ。
これは量子力学の特性を活かして通信の安全性を守る仕組みである。
量子的な重ね合わせ状態に情報を埋め込み、もし第三者が盗聴しようとすると、その観測によって状態が乱され、盗聴の痕跡が検出される仕組みになっている。
(本稿は『教養としての量子コンピュータ』から一部抜粋・編集したものです。)





