灘中学校・高校の正門 Photo:PIXTA
筆者は公立中学に進学後、工夫を重ねて成績を伸ばし、日本トップクラスの進学校である灘高校に進みました。ですが入学早々、その想像を絶するほどハイレベルな環境に圧倒されました。入学前に出された「異色の春休みの宿題」、型破りな教師が配った「衝撃のプリント」――。これらと向き合ったことが「塾なし・滑り止めなし」での東京大学合格につながりました。筆者の大学受験を支えた、超進学校の知られざる学習環境を明かします。(作家・講演家 寺澤伸洋)
※本記事は【前後編の後編】です。公立中学に通いながら編み出した、灘高校に受かるための勉強法を解説した前編は以下のリンクからお読みいただけます。
公立中から「灘高・東大」に合格した男が伝授!机に向かわず1分で終わる「究極のスキマ時間勉強法」とは?
制服なし・校則ほぼなし
秀才たちが「自己責任に基づく自由」を謳歌
高校から灘(なだ)の門をくぐった僕にとって、公立中学と灘高校は、同じ「学校」でありながら、まるで異世界のようでした。
公立中学は、良くも悪くも全員が「同じ」であることを求められる傾向が強かったのに対し、灘高校は「自由な校風」が徹底されていました。制服もありませんでしたし、厳しいルールもそれほどなかったように思います。
先生方も生徒を一人の大人として扱い、自己責任に基づく自由が尊重されていました。「自分で好きなように考えて行動し、その結果に責任を持て」といったところでしょうか。
筆者が灘高校に合格した際の成績通知表拡大画像表示
高校生活は3年間という短い期間でしたが、部活動や進路を選ぶ中で「自分で決断して行動する」習慣が身につきました。中学時代のように、学校や塾で与えられた問題をただこなすだけの日々とは、良い意味で大きく変わりました。
一緒に高校受験をして入ったメンバーは“新高(しんこう)”と呼ばれます。人数は1クラス分の50人のみ(当時)。中学入学組とは学習進度があまりにも違うため、高1の間だけ分離されて授業が進んでいきました。
特に数学のレベルに差がついていて、恐ろしいことに中学入学組は、中3時点ですでに高校2年生の範囲である微分まで学習済み。それに追いつくために、僕たち“新高”には入学前から膨大な宿題が出ました。







