もし燃料が潤沢にあったら……
防げなかった長崎への原爆投下
「4月21日に林喜重、6月22日にその後任の林啓次郎、7月24日に鴛淵、8月1日に菅野と、隊長の戦死が続き、6月頃になると飛行機や部品、搭乗員の補充もままならなくなった。そのうえ燃料も不足して、あっても質の悪いもので、そのせいで、同じ紫電改でも実質的にかなり性能が低下して、実力を発揮できなくなってきました。
機銃弾も、戦前にスイス・エリコン社から輸入したもののなかには膅内爆発(銃身内爆発)するおそれのあるものがあり、使用厳禁、となっていましたが、それが大村の第二十一航空廠の倉庫から間違って出てしまった。菅野が戦死したのはそのためでした……」
8月6日、広島に「新型爆弾」が投下された。はじめのうち、この爆弾が人類史上最初に使用された原子爆弾であることはわからなかったが、その被害状況は大村の三四三空にも伝えられている。8月8日には北九州が大規模な空襲を受け、それを迎え撃った三四三空も搭乗員9名が戦死、服部敬七郎大尉は左腕を失う重傷を負った。そして8月9日――。
『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(神立尚紀、講談社)
「この頃は燃料がなく、飛行作業は1日おきにしかできませんでした。8日の邀撃戦で大きな損害を出したこともあって、9日は飛行休みということになり、私は搭乗員全員を引率して飛行場裏山に山登りに行きました。
山の中腹に差しかかった頃、誰かが『飛行機!』と叫び、続いて『落下傘!』の声が聞こえました。長崎の方向に目をやると、青空に白い落下傘が見えたような気がして、間もなくピカッと。一瞬、顔がポッと熱くなる気がしましたよ。
『あっ!あれは広島に落とされたやつと一緒だよ。すぐに下山!』
下山してもどうにもならんな、と思いながら、隊に戻りました。繰り言になりますが、もし燃料が潤沢にあって、3機でも4機でも、上空哨戒の戦闘機を発進させていたら……と悔やまれます」







