三四三空の初陣で
紫電改に乗り込む
志賀さんは昭和19年5月、少佐に進級したが、その後肺浸潤を患い、横須賀海軍病院に入院。11月15日付で戦艦大和型三番艦を建造途中で設計変更した超大型空母信濃飛行長に発令されたものの、一度、工事中の艦を見学に行っただけで、信濃は11月29日、呉への回航中、米潜水艦の魚雷を受けあえなく撃沈される。
そして、昭和19年12月25日、第三四三海軍航空隊(三四三空)飛行長に発令され、翌昭和20(1945)年1月8日、着任した。
三四三空は、軍令部参謀だった源田實大佐の、〈精強な戦闘機隊をもって敵機を片っ端から撃ち墜とし、制空権を奪回して戦勢回復の突破口に〉との構想から生まれた。
三四三空の初陣は、昭和20年3月19日のことだった。
この日、敵機動部隊来襲の報に、満を持して発進した紫電改54機、紫電7機は、圧倒的多数の敵艦上機群と空戦、52機の撃墜戦果を報告した。損害は16機(敵発見を報じたのちに撃墜された偵察機1機をふくむ)、地上大破5機だった。空戦に戦果誤認はつきもので、じっさいには敵味方の損失はほぼ同じであったという戦後の検証もあるけれど、敗色濃厚なこの時期としては、かなりの善戦だったといえるだろう。
「この日の空戦は、地上からもよく見えました。敵が来たときには、こちらはすでに発進を終え、ちょうどよい間合いで待ちかまえている。司令と並んで、始まりますよ、と見ていると、一撃するごとに敵機が調子よく墜ちてゆく。
『これは開戦時の再現ですよ』と司令に言った記憶がありますが、結局、そのあとが続かなかった」
4月に沖縄戦がはじまり、「菊水作戦」と称して大規模な特攻作戦が実施されるようになると、三四三空もその一環として沖縄方面の制空戦に駆り出されるようになり、並行して、本土上空に来襲する米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29の邀撃、海上に不時着水した敵のパイロットを救助するため飛来する飛行艇狩りなど、本来の任務を超えて酷使されるようになる。そして、戦局の変化にともない、三四三空の主力は鹿児島県の鹿屋、国分、長崎県の大村と、移動を重ねた。
特攻出撃こそなかったが、三四三空の戦いは熾烈で、隊員たちは次々と斃れていった。







