北方領土問題の解決を自らの「レガシー(遺産)」にしようとプーチンと首脳会談を27回も重ねた安倍が暗殺される3年半前、シンガポールで行われた日露首脳会談は、国後、択捉の両島の返還を事実上断念するという大幅な譲歩案をプーチンに示した会談として「歴史に残る」に違いない。

 会談翌日の2018年11月15日、私は三上から電話を受けた。対露戦略における安倍のアプローチの致命的な誤りに気づいたというのだ。

 ふだんは冷静な三上が、このときばかりは怒り心頭に発しているのが電話口からもうかがえた。

「ロシアは『バザール商法』の国です。ロシアとの交渉でこちらから先に譲ることが、いかに致命的な結果をもたらすかを安倍さんは分かっているのでしょうか。このままでは、1島だって危ういと思います」

ソビエト式取引術の
「バザール商法」とは?

 択捉島でソビエト国民と混住していた当時、三上は「バザール商法」で何度も痛い目に遭ったという。

「例えば、布と砂糖を交換しようとしますね。こちらが渡すつもりの布の数が『1』だとすると、彼らは当然のように『10』を要求してきます」

 三上のたとえ話は、いつも分かりやすい。

「私たちはそれでも砂糖が欲しいので、最終的には『7』あたりで折り合いをつけました。ソビエト国民との物々交換では、間を取って『5』すらないのです」

 少しでも譲歩するようなそぶりを見せれば、そこにつけ込んでくるのが、ソビエト式取引術なのだ。しかも交渉期限のぎりぎりまで値切りに値切ってくる。結局は日本人が大幅に譲歩する形でしか折り合えない。

「バザール商法においては、『結論を急がない』が鉄則なのです。ロシアの時代になっても交渉ごとはバザール商法のままだと思います」

 まして、最初に正札を出してしまったら、白旗を掲げたのも同然だ。

 三上は、日本側が大幅に譲歩した「シンガポール合意」に強い危機感を抱く。

「先に譲歩案を出してしまったら、そこから値引き交渉が始まります。このままでは色丹島の返還だって難しいかもしれません」

 三上は思う。ソビエト連邦、そして承継国のロシアという国は「当たり屋」だと。

 それは、人の死傷を伴う交通事故に似ている。しかも、自分の方から体当たりしてきて、「賠償金をよこせ」と言っているに等しいというのだ。