量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。今回は「光」の量子力学についてお届けする。
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「光」は身近な量子力学?
量子力学の誕生において、最も身近で、そして最も重要な役割を果たした存在が「光」である。
量子力学は原子や電子といった極微の世界の理論と思われがちだが、その出発点は、私たちが毎日目にしている光だった。
20世紀初頭、プランクは光が運ぶエネルギーが連続的に変化するのではなく、これ以上分割できない最小単位、「光量子」の整数倍でしかやり取りされない、という大胆な仮説を導入した。
これは当時の常識からすれば極めて奇妙な発想だったが、この光量子仮説が、現在の量子力学へとつながる扉を開いた。
その後、アインシュタインは光電効果というという現象を通じて、光が波としてだけでなく、粒子として振る舞うことを示した。
金属に光を当てると電子が飛び出す。
その現象は光の強さではなく、光の色、すなわち一粒の光が持つエネルギーによって決まる。
光は確かに粒、光子だったのである。
アインシュタインはこの成果で1921年にノーベル賞を受賞する。
私たちの“目”は超すごい!
この光を検出する最も身近な検出器が、私たちの「目」である。
人間の目は、光を連続的な明るさとして感じているように思えるが、実際には網膜にある細胞が、飛び込んできた光子を一つ一つ電気信号へと変換している。
驚くべきことに、この仕組みは極めて高感度であり数個の光子程度の光を「観る」ことができる。
例えば、遠くの星が夜空に見えるのは、光が量子だからである。
星は全方向に電磁波を放出しているため、地球に届くエネルギーの密度は極めて小さい。
もし光が連続的なエネルギーの流れであれば、その微弱さは人間の目では到底検出できない。
光が粒子だからこそ、何百光年も離れた星を見ることができるのだ。
恋人と二人で夜空を見上げたとしても、あなたが星が見えた瞬間に、横にいる恋人が同じ星が見えているとは限らない。
このような目の感度については古くから議論されてきたが、人間の目を実際に使った研究も2016年にオーストリアのグループによって報告されている。
単一光子を発射できる光源を用い、人間がその光を感じ取れるかどうかを調べた結果、目は確かに光子一つというレベルの微弱な光を統計的に有意に検出できることが示された。
さらに、一度光子を検出すると、その後数秒間は感度が高まった状態が続くことも明らかになっている。
人間の目は、量子実験装置として見ても驚くほど洗練されている。
渡り鳥が長距離を迷わず移動できるワケ
自然界は、この量子力学的な仕組みをさらに巧妙に利用している。
その代表例が渡り鳥である。
渡り鳥は地球磁場を頼りに長距離を移動するが、化学反応に必要なエネルギーと地磁気のエネルギーには、実に百万倍もの差がある。
にもかかわらず、鳥は地磁気を感知できる。
その鍵は光にある。
鳥の目に光が入ると、そのエネルギーを使って電子の対が作られる。
この電子対は、スピンと呼ばれる量子的な磁石の向きが揃った状態と、揃っていない状態の重ね合わせになる。
これら二つの状態は、地磁気に対する感度が異なり、最終的に異なる化学反応を引き起こす。
その結果、地磁気の分布が視覚情報として処理される。
鳥たちは、光子検出のエネルギーを巧みに利用した地磁気センサーを、進化の過程で発明したのである。
夜空の星が導く量子力学の世界
生命現象における量子効果には、いまだ未解明な点が多い。
しかし量子技術の発展や量子コンピュータによるシミュレーションが進めば、自然界が長い時間をかけて見つけ出したこれらの仕組みを、人類が読み解く日が来るかもしれない。
夜空の星を見上げるその瞬間、私たちはすでに量子の世界に足を踏み入れているのである。
(本稿は『教養としての量子コンピュータ』の著者が特別に書き下ろしたものです。)





