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2025年末にイランの首都テヘランで始まった政府への抗議デモは、ついに185都市以上に広がった。治安部隊との衝突により、2000人以上が命を落とす深刻な事態となっている。イラン・イスラム革命によって「宗教の名の下にまとまった」はずのイランで、なぜこれほど激しい遠心力が噴き出しているのか。中東情勢が安定しない根本原因を、元外務省中東アフリカ局参事官の筆者が読み解く。※本稿は、元外務省中東アフリカ局参事官の宮家邦彦『中東 大地殻変動の結末 イスラエルとイランをめぐる、米欧中露の本音と思惑』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。
イラン・イスラム革命は
1つの新聞記事から始まった
イラン・イスラム革命が始まったのは1978年1月、というのが通説だ。
当時イランの政府系新聞が「フランス亡命中のホメイニー師は『イギリスのスパイ』だ」などと中傷する記事を掲載した。これに対し、聖地コムで学生による大規模な抗議デモが発生し、治安部隊との衝突で多数の死者が出たのが1月7日だからである。
パフラヴィー(以下、パーレビ)朝が倒れイラン・イスラム共和国が成立したのは、それから13カ月後の1979年2月11日だった。
コムでの抗議デモには伏線がある。前年10月にアーヤトッラー・ホメイニー(以下、ホメイニ)の息子がイラクで死去した。これにはイラン秘密警察による暗殺説が囁かれ、シーア派宗教界の強い怒りを買っていたからだ。
その後もイラン各地で抗議運動は続いた。9月8日にはイランの首都テヘランで「暗い金曜日」事件が起きた。国軍が大規模デモ隊に発砲し多数の死者が出た悲劇だ。これでパーレビ国王に対する国民の不信感は決定的になったといわれる。







