次は三重県の鳥羽造船所で働くようになる。そこでは職工に読ませる雑誌の編集に夢中になった。いわゆる業界誌の編集者だ。

 だが、ここでも日がたつにつれ出勤が嫌になった乱歩は、寮部屋の押入れの上段にふとんを敷いて、昼間もそこで隠れて寝てしまう始末。そうかと思えば、夜中に一人ぬけだし、町の禅寺で朝まで座り続けたこともある。結局、一年で乱歩は無断でこの職場を飛び出し、東京へ逃げてしまう。

 その後も乱歩は転職を繰り返す。

 古本屋自営、「東京パック」編集長、東京市社会局公使、「大阪時事新報」記者、「工人倶楽部」書記長、ポマード製造所支配人、民事弁護士の手伝い、「大阪毎日新聞」広告部社員……。

 短期間のものは省いてこの数だというから、すさまじい。長くても半年か1年で辞めているのがほとんどだ。

職を転々としながら出会った谷崎文学

 将来が一向に見えず、ブラブラした乱歩だったが、この不安定な時期に得難い読書体験をしている。

 ちょうど1社目の会社から逃亡して、伊豆半島を放浪しているときのことだ。谷崎潤一郎の『金色の死』という短編を読み、強く心に残ったらしい。アメリカの作家エドガー・アラン・ポーの作品に似ているとして、こう驚嘆している。

「自然主義小説ばかりだと思っていた日本にも、こういう作家がいたのかと、驚異をさえ感じた。それ以来谷崎さんの小説は欠かさず読むようになり、つづいて佐藤春夫、芥川龍之介、宇野浩二を愛読した」

 エドガー・アラン・ポーは1841年に史上初の推理小説とされる『モルグ街の殺人』を発表。乱歩はこのポーの名前をもじって「江戸川乱歩」をペンネームにしている。それだけ思い入れのある海外作家だけに、ポーに通ずる作風を持つ谷崎が日本文壇で活躍していることに、大いに刺激を受けたようだ。乱歩は谷崎作品を生涯通じて愛したという。

 放浪中に谷崎作品と出会ったときに乱歩は23歳で、まさに職を転々としていた時期だ。乱歩より8つ年上の谷崎は1910年、24歳のときに『刺青』で文壇にデビューして一躍時代の寵児となっていたことを思うと、二人の間には年齢差以上の差があったといえよう。