転職14回、引っ越し46回!推理作家・江戸川乱歩の「怪人二十面相もビックリ」な社会不適合ぶり江戸川乱歩の名作・少年探偵団シリーズ(出典:ポプラ社の公式サイトより)

後世に語り継がれる詩や小説を遺した「文豪」には、世間一般の「ふつう」に馴染めなかった者が少なくない。 しかし「こじらせていた」からこそ、彼・彼女らは文学の才能を開花させることができたと言える。今回は、書籍『こじらせ文学史 ~文豪たちのコンプレックス~』(ABCアーク)から一部を抜粋して、江戸川乱歩と石川啄木の知られざる素顔に迫る。乱歩はいわゆる「ジョブホッパー」であり、啄木は「遊女から借金したカネで女を買う」ほど荒んだ生活をしていたという――。

46回の引越し、14回の転職
仕事が死ぬほど続かなかった

今回紹介する文豪(1):江戸川乱歩(1894 – 1965)
小説家。本名・平井太郎。三重県生まれ。筆名はアメリカの詩人・小説家エドガー・アラン・ポーから。職業を転々としたのち、日本の探偵・推理小説ジャンルの創始者としてさまざまな作品を発表。猟奇性、耽美性が強い『人間椅子』などでもマニアックな人気を獲得。ほかに明智小五郎と小林少年の少年探偵団シリーズなど。

 乱歩は生涯で46回も引越しをしたという。立教大学近くの古い一軒家の土蔵で執筆していたのは有名な話だが、これは乱歩が東京で26番目に転居した家で、家賃90円、現代でいうと2万円くらいの貸家だった(家賃に関しては、1円=2500円説で換算)。昭和9年(1934)から没年までを過ごしている。
 
 早稲田大学予科時代には政治家を志していたが、衆議院を見学したとき、殴りあう議員たちに幻滅して断念。同大学政経学部卒業後は仕事を転々としていた。内にこもりがちな性格だったのに加え、人嫌いな乱歩にとって、朝から定時まで働くという生活は困難だった。とりわけ朝に起きられない性分もあって、仕事が長続きしないのだ。
 
 作家業を天職とするまで、かれこれ14ほどの職業を転々としたが、造船所の社内報の編集、漫画雑誌の編集、新聞記者、新聞広告部員などのほか、文京区・団子坂で古書店「三人書房」を弟2人と経営したこともあった。
 
 チャルメラを吹きながらラーメン屋台を引いてまわったり、高田馬場で下宿「緑館」を開いたり、ポマード工場の支配人にもなった。これらの自営業のほかは、弁護士事務所の手伝いや貿易会社の社員などサラリーマンにもなってみたが、続くわけもなかった。

作家としての江戸川乱歩

 乱歩にとっては作家が天職だったが、それは休業が比較的かんたんに許される職種だったからのようで、創作活動を行った31年間のうち17年間を休筆していたという。「休載だらけではないか」と元・編集者だった推理作家・横溝正史(よこみぞ・せいし)から猛批判されたこともある(のちに横溝が謝ってきたので和解した)。谷崎潤一郎の大ファンで、ことあるごとに対談を申し込んだが、美しいものにしか興味がない谷崎からはことごとく無視されている。

 ほぼ唯一、まじめに続けられていたのは三味線の稽古だけで、めきめきと腕をあげていった。もともと、ピアノを弾いて小説の構想を練る西洋人の作家がいると聞き、三味線を選んだだけだったのだが……。

※過去の貨幣価値について、はっきりと現代日本円に置き換えることはできません。本稿では当時の物価や賃金、各文献の記述を参考にしつつ算出していますが、あくまで実験的な数字であることをご了承ください。