また、前述の草野には、秀吉が鍛冶屋に弟子として入ったという伝承があるという。行商人、大工や鍛冶師などの技術者集団は、特定の土地に縛られることなく移動を繰り返しながら生活を営むことが多いので、秀吉の生い立ちとも整合する。

 フロイス『日本史』やジョアン・ロドリゲス『日本教会史』といった記録では、秀吉が若い頃に山で薪を拾い、それを売ることで生計を立てていたと述べられている。この記述は、秀吉が農業に従事していなかった事実を裏付けるものであろう。

 つまり、秀吉の少年期・青年期に関しては、農業従事者としての描写は諸文献に見えず、むしろ商業的な活動が目立つ。

 ここから、秀吉が農業に縛られず、当時の農村社会の枠外で生活する「非農業民」的な存在であったという可能性が浮かび上がる。

『真説 豊臣兄弟とその一族』書影『真説 豊臣兄弟とその一族』(呉座勇一、幻冬舎)

 秀吉を行商人や技術者集団の出身とする非農業民説は、秀吉が後に発揮する計数能力や情報収集能力、米の買い占めによる兵糧(食糧)攻めや土木事業による水攻めといった柔軟で大胆な発想が何に由来するかを説明できるという点で魅力的である。

 さらに、秀吉は蜂須賀小六(正勝)をはじめとする、「川並衆」と称される流通に深く関与する土豪衆と人的ネットワークを築き上げた。このような活動は、農民のような定住者には難しく、秀吉が遍歴する漂泊民だったからこそ可能だったと捉えることができる。

 以上のように、豊臣秀吉が非農業民であったとする説は、彼の先祖の職歴や幼少期の生活環境、流浪的な生き方に基づいている。秀吉が農村に根差した存在ではなく、むしろ多様な技能や経験を通じて武士としての道を切り開いた人物であったというのである。